政界も巻き込んだ、日本の鉄道「線路の幅」大論争 「狭軌」か「広軌」か、新幹線実現に至る道のり
このような行き詰まった状況を打破する起爆剤の役割を果たしたのが、当時、国鉄の研究所の位置づけだった鉄道技術研究所(現・鉄道総合技術研究所。以下、鉄研)創立50周年記念行事として、1957年5月に銀座山葉ホールで行われた「超特急列車、東京―大阪間3時間への可能性」という講演会だった。
講演者は三木忠直(車両について)、星野陽一(線路について)、松平精(乗心地と安全について)、河邊一(信号保安について)の4名。このうち、三木忠直は戦前・戦中は海軍で陸上爆撃機「銀河」などを設計し、戦後、鉄研入りした人物である。
同講演会で三木は、東京―大阪間を3時間で結ぶためには、450~500km程度(東海道本線は約560km)の広軌別線を敷設し、最高時速210km(表定速度170km、平坦線均衡速度 250km)ぐらい出さなければならない。また、自らの航空機設計の経験から、車体形状は流線型、軽量化を図るため飛行機同様に張殻(モノコック)構造にし、車体の材質には軽合金を用い、合成樹脂も積極的に用いる必要がある。その一方で、車体を軽くする分、安全のために重心を下げる。そして、動力方式は動力分散方式の電車形式が有望であるといった自説を展開した。
鉄道開業から90年「広軌新線」実現へ
この講演会の内容は、マスコミを通じて報道され、話題となった。当時は、前年の1956年11月に、ようやく東海道線の全線電化が完了し、特急「つばめ」「はと」の東京―大阪間が7時間半に短縮されたばかりだった。また、ビジネス特急「こだま」(東京―大阪間6時間50分)が登場するのは、翌1958年11月という時代である。それを3時間で大阪まで行くというのだから、まさに度肝を抜くような話だった。
さらに講演会から4カ月後の9月27日には、鉄研と小田急が共同開発し、三木が設計を主導した初代小田急ロマンスカーSE車(3000形)が、国鉄東海道線の函南―沼津間における走行試験で時速145kmを記録した。SE車は狭軌であり、車体にはアルミではなく耐蝕鋼板が使われるなどしたものの、モノコック構造を採り入れるなど航空機の設計思想を随所に取り入れた車両だった。高速走行に適した車両をつくれば、狭軌でも時速145kmが出せるのだから、広軌ならば時速210kmが決して夢物語ではないことを実証したのである。
それから6年後の1963年3月30日。神奈川県の綾瀬―鴨宮間(約32km)に建設されたモデル線で、新幹線試験車が電車方式による当時の世界最高時速256kmを記録した。新橋―横浜間の汽車が最初の汽笛を鳴らしてから、90年以上の月日が経過していた。
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