政界も巻き込んだ、日本の鉄道「線路の幅」大論争 「狭軌」か「広軌」か、新幹線実現に至る道のり

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その後、西南戦争や日清・日露戦争を通じての軍事輸送の増大と重工業の発展にともない、鉄道の高速化・輸送力強化には広軌化が必要であるとの認識が強まり、鉄道院総裁を務めた後藤新平(第2次桂内閣)や仙石貢(第2次大隈内閣)らが広軌改築に向けた調査・検討を進めた。

都電荒川線や京王線などは、1372mmという特殊な軌間(馬車軌間)を採用している(筆者撮影)

その流れの中で大きな役割を果たしたのが、鉄道院工作部長・技監(技術畑の最高職)などを歴任し、広軌改築推進派の技術面における中心的人物だった島安次郎である。1917年には、島らによって横浜線の原町田(現・町田)―橋本間に広軌線路が併設され、広軌化実現に向けての各種実験が行われた。

ところが、その後広軌化を進めるべしとする憲政会系(都市部を基盤)と、狭軌のままで地方未成線を整備するのが先決であるとする政友会(地方を基盤)の原敬らが対立し、両派が政権交代を繰り返す中で、鉄道広軌化は政争の具に利用されることとなる。

こうした状況に見切りをつけた島安次郎は鉄道院を去るが、1938年、いわゆる「弾丸列車計画」(正式名称は、広軌新幹線計画)が持ち上がると、状況が一変する。

「弾丸列車」計画とは

弾丸列車は、東京―下関間に、既設の東海道本線・山陽本線とは別に広軌新線を敷設し、機関車(東京―静岡間は電気、静岡―下関間は蒸気)牽引による列車を最高時速150km(将来的には200km)で走らせ、東京―大阪間を4時間半、東京―下関間を9時間で結ぶという革新的な計画だった。この弾丸列車計画を検討する鉄道幹線調査会の委員長に島が選出され、再び広軌化実現の道が開かれたのである。

計画が持ち上がった背景としては、東海道本線・山陽本線の輸送が逼迫しつつあったところに、1931年の満州事変勃発(翌年、満州国建国)、1937年の盧溝橋事件からの日中戦争への突入という流れの中で、東京―下関間、さらに朝鮮半島・満州への一貫輸送が重視されるようになったことが挙げられる。

さらに、広軌を採用していた南満州鉄道(満鉄)において、1934年11月から大連―新京(現・長春)間を結ぶ超特急「あじあ」号が最高時速130km(表定速度82.5 km)で運転開始し、日本本国の特急「燕」の最高時速95km(表定速度69.6 km)を大きく上回ったことから、広軌鉄道の優位性が強く意識されたこともあった。

1940年3月、第75回帝国議会において15カ年継続計画、総額約5億5610万円の予算成立後、新丹那トンネル(小田原―三島間)、日本坂トンネル(静岡―浜松間)、新東山トンネル(名古屋―京都間)の各トンネル掘削工事が進められた。ほぼ同時期の戦艦「大和」の建造費が約1億3700万円だったのと比較すると、いかに巨額のプロジェクトだったかがわかる。

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