政界も巻き込んだ、日本の鉄道「線路の幅」大論争 「狭軌」か「広軌」か、新幹線実現に至る道のり
なお、調査会の議事録を見ると、当時の人々が長距離列車というものに対して、どのような認識を持っていたかをうかがい知ることができる。1956年9月4日の第3回調査会では、島がわざわざ次のような発言をしている。
背景には、当時の人々の頭には「長距離列車には、安定性の高い機関車牽引の客車列車を用いるのが当然である。振動・騒音が大きく乗心地の悪い電車を使うことなどありえない」という固定観念があり、これを覆す必要があったのだ。
「広軌新線」議論は結論出ず
島は、戦前に2度にわたり海外の鉄道事情を視察した経験から、地盤が弱く、軌道構造物も貧弱な我が国には電車列車が適していると、早くから機関車(動力集中方式)に比べて軽量な電車(動力分散方式)の将来性を見抜いていた。そして、戦後間もなく電車の振動・騒音の原因究明と改善を図る「高速台車振動研究会」を車両メーカーなども巻き込んで開催し、湘南電車(80系)などの高性能電車を世に送り出してきた。そのような島にとって、増強調査会での議論は、非常に歯がゆいものだったに違いない。
さて、増強調査会は計5回にわたって開催されたものの、国鉄の財政状況や世の中の経済見通しに絡めた広軌化への慎重意見が根強く出され、堂々巡りの様相を呈した。
これに業を煮やした十河は、「鉄道が経済発展について行くという考へ方ではなしに、交通機関が経済活動をリードするのであるということを考へねばならぬ」(第4回議事録)、「東京―大阪間を8時間で走るか、4時間で走るかということが国鉄の経済にどうひびくかということを考えると同時に日本経済にどうひびくかということも考えねばならぬ。(中略)原子力時代になつてもこのまま狭軌でよいかどうか」「昭和16年かに広軌の複々線を既に着手したのである。これは充分検討の結果決定したことと思うので今更検討の必要はないとも実は思つていたくらいで、(中略)直ぐに結論が出ると思つていた」(第5回議事録)と、戦前の弾丸列車計画も引き合いに出すなどしつつ慎重派の説得を試みた。しかし、具体的な結論が出ないまま、1957年2月の第5回を最後に増強調査会は散会した。
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