フィリピン大統領選で独裁者の息子が有力なワケ 巧みなSNS戦略、母の執念、エリート層への不満

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ボンボン氏について、父親の悪行とは無関係、あるいは知らなかったという支持者がいるが、亡命当時28歳で知事という立場を考えれば、「何も知りませんでした」では通らないと考えるのが普通だ。元大統領は滞在先のハワイで1989年に病死したが、家族は当時のアキノ政権の反対を押し切って1991年に帰国を果たした。

ボンボン氏はオックスフォード大卒と称していたが、実は卒業していないことがその後判明した。職歴としては知事のほか、上下院議員がある。マニラの街角のポスターは「公職30年」と経験を謳うが、政治家としての業績をすぐに説明できる人は多くないだろう。逆にいえば、「公職」以外の定職についたことはなく、ボンボンという名が体を表すように、「息子」であることが最大のアイデンティティーであり、選挙のキャンペーンのウリでもある。

2021年10月、ボンボン氏が大統領選出馬を決めたとき、ドゥテルテ大統領は「私は彼を信用していない。海外で学び、きれいな英語で演説できるが、中身は甘やかされて育った一人息子だ。危機の時にリーダーシップを期待できない弱いリーダーだ。侮辱ではない。真実だ」と評した。

マルコス家と近いとみられているドゥテルテ氏の発言の真意は不明だが、少なくとも反マルコス派の人々は、的を射ていると感じたはずだ。

候補者討論会への出席拒否

筆者は1995年4月1日、ミンダナオ島ジェネラルサントス市のホテルでボンボン氏に長時間のインタビューをした。全国区で12人を選ぶ上院選に初めて立候補し、当地で遊説を終えた夜だった。父の時代の人権侵害や不正蓄財、逃亡時の財産持ち出しなど愉快でないはずの質問を多くぶつけたが、聞かれ慣れているのか、激することもなく淡々と答えていた。

返答をまとめると、とどのつまり「私にどうしろというのか」という開き直りを感じた。母親のイメルダ夫人に言われたから上院選に出るのかと聞いたが、否定することもなかった。

結局、筆者はこの会見を記事にしなかった。当時は今のようにウェブで発信するといった機会はなく、新聞のスペースは限られていた。ボンボン氏は当選しそうもなかったし、実際にこの時は落選した。何より、母や姉のアイミー氏とのインタビューに比べて話が面白くなかった。上院議員になって何がしたいのかがわからなかったのだ。

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