2000連休で「ネット中毒」突き詰めた男が見た真実 集中力が続かないことが本当の問題ではなかった

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今回、やみくもに禁止するのではなく、ネットをしている自分を観察してみることにした。 

具体的には、初心者のような気分で、ゆっくりとネットを見てみる。私はネットに慣れており、操作に悩むことはないのだが、あえて速度を落としてみる。たとえば、ツイッターのタイムラインを見る。具体的には、ツイートを読む。ページをスクロールする。リンクをクリックする。動画の再生ボタンを押す。検索ワードを入力する。タブを切り替える。普段は無意識にしている色々な操作を、ひとつひとつ意識に上げてみる。ゆっくりと操作してみることで、普段はいかに異常な速度だったのかを実感した。

タイムラインに関しては、読むというよりはスキャンしている。つまり、視界に入ったものの大半を無視して、興味を引いた文だけを読み、リンクをクリックしている。リンク先を見終えればタブを閉じる。最後まで見ずに閉じることもある。そしてスキャンを再開する。眼球の動きは速く、瞬時に膨大な情報を処理している。指先の動きも異様に速く、トラックパッドをこすり、ショートカットキーを多用している。椅子に座って、身体を固定したまま、眼球と指先だけがものすごい速度で動き続けている。指先と目玉の化け物がここにいる。

デバイス依存はまるで「赤ん坊のおしゃぶり」

結果、2時間ほどネットを見るだけでも、大量の断片を消費して、何を見ていたのか、うまく思い出せずに首をかしげる。本を読む場合、基本的には冒頭から順に読んでいく。特定の内容を探してスキャンするようにページをめくることもあるが、それでも書物自体が一定の統一感を与えられたものだし、それぞれにまったく無関係なものが雑多に集まっているネット空間とはちがっている。

ネットに慣れた状態で分厚い本を読もうとすると、やはり数分で集中が切れてしまう。集中のリズムが非常に細かくなっている。本というものは、ネットに比べるとゆったりとしたリズムで書かれているから、ネットのリズムのまま読もうとすると、うまくいかないのだろう。

たまにネットで面白い人を見つけて、その人のブログやツイッターのログを辿って読む。このとき、体感としては読書に近づく。大量の選択肢をスキャンして特定のものだけを見るのではなく、順を追って見ていくからだろう。この場合、記憶にも残る。

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