日産自動車から34%の出資を受け入れ、傘下に入ることが決まった三菱自動車。
一方で、まったく動かなかったのは、同社を関連会社として擁する三菱重工業である。12年前に三菱自動車が経営危機に陥った際、救済を主導したのとは対照的だ。
「この数年間で三菱重工の経営方針が大きく変化したことも影響している」と見る財界関係者は多い。現在、三菱重工では2013年4月に就任した宮永俊一社長がグローバル企業への脱皮を目指した改革を推進している。重工自体の経営が大きな曲がり角にあるため、支援の余力がなかったということだろうか。
組織改変で現場力低下 名門、長崎造船所の混乱
「三菱は国家なり」の言葉に表れているように、戦前、ゼロ戦や戦艦武蔵を造り、戦後もイージス艦、H2Aロケットを生産、国家プロジェクトに貢献してきた。造船を皮切りに発電設備や製鉄機械、鉄道、自動車なども手掛け、三菱グループは日本の重工業化を牽引することで産業界に確固たる地位を築いた。
その原点が現在の三菱重工長崎造船所にある。同造船所の起源は、ペリー来航から4年後の1857(安政4)年に建設が始まった幕府長崎鎔鉄所だ。明治に入り、岩崎弥太郎の弟で三菱財閥2代目当主の弥之助が大蔵相の松方正義に依頼して1887(明治20)年、払い下げられた。
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