日本の“表玄関”を挟んで、三井・三菱の「まちづくり」対決--江戸への回帰と明治への郷愁
三井、三菱の「まちづくり」のコンセプトは、それぞれの財閥の創始者のイメージとつながっている。
三井の家祖、三井高利(1622~1694)は、伊勢松坂(三重県松阪市)の出身だが、江戸と京都で呉服商と両替商を営み、江戸・日本橋を拠点に家業を伸ばした。当時の「三井越後屋呉服店」が、今日の「三越百貨店」の前身である。
日本橋は言うまでもなく、五街道の起点だが、同時に文化、情報の発信地でもあった。
この地区は、バブル崩壊後の1990年代以降、地盤沈下がとりわけ著しかった。その象徴的な出来事が、99年の「日本橋東急」(元白木屋)の閉店。こうした状態を憂えた地元老舗、地区住民、企業が一体となって、日本橋再生計画が持ち上がった。
その中心となった三井不動産のポリシーは、江戸から東京へと連なる日本橋のまちの魅力を「残しながら、蘇らせながら、創っていく」こと。日本橋中央通りを軸に、ゆくゆくは京橋、銀座へと伸びる一大商業ゾーンの完成を視野に入れている。
片や、三菱の創業者、岩崎弥太郎(1834~1885)は、土佐(高知県)出身で、明治初期を代表する実業家。政官界との強いパイプを通じて、三菱財閥の基礎を築き、丸の内地区の開発にも力を入れた。明治中期、この界隈は、「一丁ロンドン」と呼ばれ、レンガ造りのモダンなオフィス街が現出した。
大丸有地区の再開発の基本イメージは、「日本経済を牽引するビジネス街」だけではなく、さらに「新しい可能性と出会える街 ABLECITY」を目指すという。文化・観光ゾーンの強化も、その一環。
その中に、岩崎家が力を伸ばした明治時代への郷愁が加わるのは、自然の理と言っていいかもしれない。その強い思いを具体化したのが、レンガ造りで再生された「三菱一号館」(上写真)と、ここを本拠にした美術館である。