それと同じ論理で、戦後日本社会の「わいせつ」をめぐる議論は、今まで「隠されてきた女性器をどうさらけ出すか」という、男目線のものでした。男性の性器もモザイクの対象でしたが、「表現の自由」の名の下に暴こうとされたのはほとんどが女性器で、それは男性の性欲の対象としてだったと言ってよいでしょう。
女性の主体的な「性」の表現
一方で、今回提起されたのは、自分の性を女性がどう表現するかという問題。これが3つめの論点です。
今までの「わいせつ」に関する議論は、ほとんど「男の性欲を満たす表現をどれほど認めるかという問題」としてしか認識されてこなかったと言ってよいでしょう。それに対してこの事件は、女性の性の表現の自由を、女性の側から主張しています。
これは、従来の「わいせつかどうか」という議論とは、かなり異質な問題です。そしてその女性の問題が、なぜ警察によって、ただ性器が描かれているということのみをもって「公序良俗に反する」と摘発されなければならないのかという、たいへん古くて新しく、重要な問題をはらむものなのです。
今回の事案では、作り手も、表現されたものも、想定されている消費者もすべて女性です。女性にとって女性器は、男性にはさらされても自分では直接見ることができず、同性のそれを見ることもできないものです。
そのため「女性器を語る・表現する」というのは、実は1970年代以降のフェミニズムの中で重要なテーマでした。ろくでなし子さん自身が、「自分の女性器は異常なのではないかと悩み整形手術を受けたが、当時は情報もなく、今から振り返ると何の異常もなかった」と語っています。
ろくでなし子さんの「女性器を公開する」という活動は、だからこそ「異常だなんて考えないで」と、女性にとっての性器を話題とするメッセージを持つものだったのです。そしてそれは、女性が語ると「はしたない」などとされがちな女性の性・性欲を、男性の性欲の客体としてではなく、女性を主語として発信したメッセージでもあるのです。
今回の逮捕は、日本の法規制の「異様さ」を示すものととらえられ、海外からはとても大きな「事件」に映りました。7月の逮捕後、すぐさま外国人記者クラブに招待され、記者会見が行われています。「ポルノグラフィーであふれる日本で、なぜ彼女が法に問われるのかがわからない」との外国人記者の疑問は当然のものに聞こえます。仏紙「ル・モンド」も大きく取り上げました。彼女の自らの性に向き合おうとする姿勢は、「わいせつ」と呼ぶべきものでしょうか?
このように「わいせつ」の問題が初めて「女性の問題」として立ち上がったということを「喜ぶ」べきなのかもしれません。単に「スケベな男性」の問題なのではなく、性と向き合うということに、日本社会がどのような判断を下すべきかについて、初めて「男女平等に」問いかけることになるからです。
なぜ今回、女性による、女性のための、女性の性への問いかけが、警察によって摘発されなければならないのか、みなさんならどう答えますか?
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら