ですが、今回のケースは女性向けのアダルトグッズショップなどで「頒布」されたことが問題となっており、どこに「被害者」がいるのか、よくわかりません。この場合の被害者は刑事政策上は「公共の秩序、善良の風俗」いわゆる「公序良俗」といわれる、実体の伴わない何ものかになります。
毎朝の電車の中で、目を避けようとしても飛び込んでくる吊り広告のビキニの女性の写真やスポーツ新聞の風俗記事。これらは日本を訪れる外国人が一様に驚く「異様な」光景です。一方で日本では性器にモザイクをかけるという、これまた「異様な」規制が行われています。これは何が問題で、何が問題ではないのでしょうか?
空間的な隔離を行えばいい
公序良俗の観点から、見たくない人の自由が確保されなければいけないのは当然です。ただ「見たくない人が見なくてすむ自由」が、「見ようと思う人が見る自由」と共存するためには、性器にモザイクをかけることが重要なのではなく、単純にそれを空間的に切り離せばよいはずです。
これはすみ分け、もしくはゾーニングといわれる手法で、多くの先進国で取られている政策です。つまり電車の中のような公共の空間では、「見たくない人」に照準を合わせて露出を抑え、他方で「見ようと思う人しか見に行かない空間」の自由を守ればよいのです。
ところが日本の「わいせつ」に関する刑事政策においては、そうした「空間的隔離」ではなく、「性器の描写」にのみ過剰な焦点が当てられてきました。つまり刑法上違法とされる「わいせつ物」の範囲は、戦後日本の刑事裁判の歴史の中で、「(性器を描写する)表現の自由」と「公序良俗」との綱引きの結果で決まってきたということができます。
そこでは「どこまで性器を描写してよいか」がつねに問題とされてきました。またその結果として出る裁判所の判決は、「公序良俗」という、いわば「社会の平均値」を意識するために、時代を経るにしたがって、より「開放する」方向へと移ってきたことも事実です。
一方でそうした規制のために、隠すことが欲望を生むという「倒錯した」状況が生まれます。これが2つめの論点です。
『美人論』(朝日文芸文庫)などで有名な社会史家、井上章一さんは『パンツが見える』(朝日選書)の中で、「パンチラ」に対する男性の「欲望」自体が歴史的な産物であることを、さまざまな資料を用いながら丹念に証明しています。
和服に腰巻きだった時代には、はだければ女性の性器が見えたのに、「洋装(スカート)にズロース(今でいえばパンティ)」になったために、スカートの中から「パンツが見える」というのは、もともとは男性の性欲の対象ではなかったというのです。
ところが時代を経てスカートが標準となり、隠されるものがパンティになったときに、「パンチラ」が性欲の対象となる。要は「(見えそうなのに)隠される」ことが「欲望」を作り出すというプロセスを、井上さんは歴史的に明らかにしたのです。考えてみれば、アイドルのビキニ姿はグラビアで当たり前なのに、それが「パンチラ」になった瞬間にスクープになるというのは、奇妙な話です。覆われている部位も面積もほとんど変わらないのに。
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