「若者の邪魔」をしてはいけない人口減少社会 年長者は「仕方ねぇなぁ」と待ち続けるしかない

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一方、過疎の山村ではそもそも人がいない。人がいない社会ではどうにかして社会を回す担い手を求めています。だからその社会を担おうと思ったら、1人の人がいくつかの役割に関わる必要がある。でも1つひとつにそれほど質は求められない。ちょっと大げさに言うと「存在していればいい」のです。

そう思って周りを見渡すと、村にあるものの多くはただ存在していることがわかります。さまざまな木々や花々、鹿やタヌキなどの動物、カマドウマやムカデといった虫。カエルやヘビなどももちろん、1年に成長する目標を求められていませんし、1年中同じような生活を営むことを強制されもしていません。何らかのハードルをクリアしないと存在が認められないわけではないのです。

社会自体が持たない

ぼくたちは都市に暮らしているとき、「何かをしないと存在してはいけないのではないか」というメッセージを、全身に浴びている気がしていました。でも村に越してみると、存在することは何かを差し出すことと同義ではないことに気がつきました。だからこそ、息のしやすさを感じたのだと思います。つまりこう言ってよければ、都市は買い手市場なのに対して、農村は売り手市場なのです。

でも注意が必要です。この市場は単純に比較できるものではなく、都市が高度な第3次産業的能力が求められている一方で、村では決して高度でなくてもいいけれど、さまざまな能力がほどほどに求められる。都市では論理的思考でバリバリ進める個人が求められるのに対し、村ではどちらかというと非論理的な部分で全体の事情への理解が求められる。

こうやって比較すると、現代社会の価値観が都市をベースにしているため、どうしたって村のほうが遅れていたり、「生産性が低い」と言われてしまいます。しかしぼくはどちらがよくてどちらが悪いとは考えていません。なぜなら、今までの人口増加社会が生産性を追い求め、そのために環境問題や社会問題などを置き去りにすることで成り立っていたからです。つまり都市の原理に偏りすぎていたことが、大きな問題だと思うのです。人口減少社会は生産性が高い低いだけでなく、村的な原理を取り戻さないと「社会自体が持たない」のです。

しかし現在でも日本社会は人口の増加を前提としたモデルを採用してはいないでしょうか。まずやるべきことの決まったポストをつくり、そのやり方を守れるか守れないかで人を評価する。こうなるとどうしてもルールを遵守することが目的となり、そのルールが作られた本来の目的は失われていく。人口が減っている現状にもかかわらず、人口が増えている社会のやり方しか知らないぼくたちは、手段と目的のくい違いを自覚しなければなりません。『人口減少社会のデザイン』の著者、広井良典さんは明治時代から続いてきた人口増加の時代、そしてこれからの人口減少の時代を以下のように捉えています。

大きくとらえると、急激な人口増加の時代というのは、一言で表すとすれば日本人あるいは日本社会が「集団で一本の道を登る時代」だったと要約できるだろう。それはよくも悪くも“一本の道”であるから、教育や人生のルートなどを含めて多様性といったことはあまり考慮されず、文字どおり画一化が進み、それと並行していわゆる集団の“同調圧力”といったものも強固なものになっていった。
そのような強力かつ一元的なベクトルから人々が“解放”され、いわば坂道を登った後の広いスペースで各人が自由な創造性を発揮していける、そうした時代がまさに人口減少社会ととらえられるのではないか。(43頁)
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