"せいせき"由来は?聖蹟桜ヶ丘「拠点駅」への道筋 明治天皇行幸の地として「観光地化」を模索

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戦前期までの京王は、多摩を東京郊外の行楽地として開発し、昭和に入ると住宅をメインとする不動産開発にも参入した。戦争によって事業は休止状態になったが、その方針は戦後の京王帝都電鉄も引き継ぎ、戦災復興が一段落した1950年から住宅分譲・販売を本格化した。

それは政府が取り組んだ戦災復興計画、高度経済成長期の住宅政策ともリンクする。政府は住宅建設10ヵ年計画を策定し、1955年に日本住宅公団法が制定され、日本住宅公団が発足した。

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その動きに呼応するように、京王は1955年に開発宣伝部の一部署にすぎなかった田園都市課を田園都市建設部へと昇格させた。翌年には聖蹟桜ヶ丘駅一帯の用地を買収し、最終的に1200区画にも及ぶ桜ヶ丘住宅地の造成を開始する。この開発には地元の多摩村も積極的に協力した。それを端的に表したのが、役場内に事務局を置いた多摩村開発実行委員会の存在だった。同委員会の最高顧問には京王の田園都市建設部の部長が就任。官民一体の住宅開発によって聖蹟桜ヶ丘駅の周辺は大変貌を遂げていく。

桜ヶ丘住宅の目新しかった点は、全区域で都市ガス供給を前提としていたことだった。そのために京王はガス会社を立ち上げた。1960年には隣接する丘陵地にゴルフ場も造成。聖蹟桜ヶ丘駅一帯は、住宅地と行楽地を合体させたようなエリアとなっていった。

一時はニュータウンの玄関口にも

これら沿線開発の成果もあり、1955年まで24万人だった京王の1日平均輸送人員は、1965年には55万人にまで増加。わずか10年で利用者数が倍以上にまで膨らんだことは、京王にとって嬉しい誤算でもあった。聖蹟桜ヶ丘駅付近は1969年に高架化され、駅は北へ約50m移動し改築。同時に周辺の再開発も進んだ。

一方で、首都圏の急速な人口増加は住宅難を深刻化させた。住宅問題を解消すべく、政府と東京都は多摩ニュータウンの開発を計画。1971年に入居を開始したが、住民の足となる鉄道は未開通だった。

聖蹟桜ヶ丘駅北側の駅ビルにはバスターミナルがあり、多摩エリア各地を結んでいる(筆者撮影)

多摩ニュータウンに居住した新住民の多くは、都心部へと通勤するサラリーマン世帯だった。ニュータウンと都心を結ぶ京王相模原線・小田急多摩線が開業するまでの約3年間、新住民たちは聖蹟桜ヶ丘駅までバスに乗り、そこから京王線に乗り継ぐという不便を強いられた。

こうした状況もあって、聖蹟桜ヶ丘駅は多摩ニュータウンの玄関駅としても機能することになった。京王相模原線や小田急多摩線が開業するとその座を譲り渡したが、ニュータウン開発が一段落した1981年からは多摩市と京王が共同で聖蹟桜ヶ丘総合開発を計画し、84年に着手。長期的な開発は1988年まで続き、駅周辺には商業施設や公共施設がさらに集積していった。

郊外の行楽地を目指した聖蹟桜ヶ丘駅周辺は、京王の沿線開発や政府・東京都の住宅政策などにより、閑静な住宅街として現在に至っている。

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小川 裕夫 フリーランスライター

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おがわ ひろお / Hiroo Ogawa

1977年、静岡市生まれ。行政誌編集者を経てフリーランスに。都市計画や鉄道などを専門分野として取材執筆。著書に『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)、『私鉄特急の謎』(イースト新書Q)、『封印された東京の謎』(彩図社)、『東京王』(ぶんか社)など。

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