"せいせき"由来は?聖蹟桜ヶ丘「拠点駅」への道筋 明治天皇行幸の地として「観光地化」を模索

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そのため、政賢は多摩川の砂利採取権を玉川電気鉄道(東急世田谷線の前身)や東京砂利鉄道(国鉄下河原線を経て廃止)へと販売することを考えた。さらに政賢は産業を育てるべく、多摩一帯を郊外の行楽地にすることも模索していた。

当時は企業に勤める、いわゆるサラリーマンが増えてきた時期で、休日は家族でレジャーを楽しむというライフスタイルが浸透しつつあった。急速に都市化していた東京では、週末に郊外へと日帰りで出かけることが人気になっていた。

政賢はその兆候を察知。東京から日帰り圏内で、自然が多く残る多摩が行楽地として適地であると考える。問題は、多摩には由緒のある神社仏閣が少ないことだった。東京中心部には江戸時代から積み重ねられてきた歴史があり、神社仏閣で太刀打ちできるはずもない。町人文化によって育まれた浅草や日本橋といった魅力的な繁華街もある。

そこで、政賢は多摩の魅力を発掘するべく「御遺蹟保存会」を発足させる。1924年、政賢は多摩村(現・多摩市)連光寺地区の向ノ岡と呼ばれる丘陵地一帯を行楽地として開発することを検討した。連光寺は同名の寺院があったことに由来するとされる地名で、計画には開業前の玉南も名を連ねた。後に、同社はこの地を「桜ヶ丘」と名付けるとともに桜を植樹して名所化を図った。

「聖蹟」の駅名は南武線が先だった

玉南は翌1925年に開業し、連光寺の最寄り駅として関戸駅(現・聖蹟桜ヶ丘駅)が開設された。だが、同社はすぐに京王へと合併され、玉南が計画した連光寺一帯を行楽地として開発する動きは沈静化する。京王は連光寺開発を後回しにした。

小高い丘陵地に広がる桜ヶ丘公園(筆者撮影)

一方、京王に代わって連光寺一帯の開発に意欲を見せたのが南武鉄道(現・JR南武線)だった。南武は1927年に川崎駅―登戸駅間を開業。しかし、すぐに資金難に陥り、こちらの連光寺開発計画も立ち消えになる。それでも南武は線路を少しずつ北進させ、連光寺の最寄り駅となる大丸停留場(南多摩駅の前身)を開設。1931年には「多摩聖蹟口」と改称した。南武が、京王よりも早い時期に“聖蹟”という文字を駅名に用いていたことは注目に値する。

聖蹟とは、天皇行幸の地など天子に関係ある史跡を指す。明治期に天皇が立ち寄った連光寺一帯は、宮内大臣を務めた田中光顕の働きかけによって大正末期から「聖蹟化」の機運が強まった。政賢は田中からこの動きを持ちかけられ、多摩村の聖蹟化に着手。これに乗っかる形で、京王は1937年に関戸駅を聖蹟桜ヶ丘駅へと改称した。

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