"せいせき"由来は?聖蹟桜ヶ丘「拠点駅」への道筋 明治天皇行幸の地として「観光地化」を模索

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政賢に聖蹟化を持ちかけた田中は、日本各地で維新功績者の顕彰事業や天皇由来の地の聖蹟化に取り組んでいた。田中が連光寺の聖蹟化を打診したのは、多くの選択肢のひとつにすぎなかったが、政賢が連光寺、そして多摩村の聖蹟化に活路を見いだしたのは、この地域と天皇家が深い関係にあると考えていたからだ。

天皇家と連光寺の関係は、1881年に始まる。明治天皇は八王子へと行幸。その帰路、予定を変更して連光寺に立ち寄って狩猟を楽しんだ。これを機に、連光寺には御猟場が開設される。その際、宮内省との折衝役を務めたのが富澤家だった。

御猟場に指定されることは村の名誉だったが、エリア内での農耕や禁猟といった制限も課される。御猟時には村内から勢子と呼ばれる野生動物を追い出す役割の人手も動員しなければならない。一回の御猟で、約150人の勢子を出すことは大きな負担だった。また、エリア内が禁猟になることで、近隣の田畑は鳥獣被害に悩まされる。このため、指定解除を請願する村もあった。

その一方で、連光寺一帯は逆に村内の未指定地域も御猟場へ加えてほしいと請願した。請願は受け入れられなかったが、そうした縁もある連光寺の聖蹟化は政賢にとって願ってもない話だった。

東急の総帥も関与した「聖蹟化」

聖蹟化の取り組みが進むと、1929年には浅草(現・台東)区から「対鴎荘」が移築された。これは明治維新の動乱期に明治天皇を公家の立場から補佐した忠臣として知られる三条実美の別邸だ。これにより連光寺の聖蹟化は加速したが、そこには京王のみならず目黒蒲田電鉄(東急の前身)も協力していた。

同社の総帥、五島慶太は自社の沿線価値を高めるべく、緑化や造園にも強い関心を抱いていた。五島が絶大な信頼を寄せていた造園家の高村弘平は、連光寺の植栽計画を担当。また、五島は系列の遊園地だった多摩川園からもスタッフを派遣している。

明治天皇の功績を伝える旧多摩聖蹟記念館(筆者撮影)

聖蹟化のしめくくりともいえる多摩聖蹟記念館(現・旧多摩聖蹟記念館)は、1930年に竣工。記念館の設計は関根要太郎と蔵田周忠の二人が担当。二人は武蔵高等工科学校(現・東京都市大学)で教鞭をとっていた。同校は1929年に開校したばかりだったが、後の学校運営に五島は大きく関わっている。これらを踏まえると、京王沿線ながら連光寺の聖蹟化には後の東急も大きく関与したことがわかる。関根と蔵田は、京王が沿線開発の一環で開園させた遊園地「京王閣」の設計も手がけている。

【2022年2月14日13時35分 追記】記事初出時、武蔵高等工科学校についての記述に誤りがあったため上記のように修正しました。

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