"せいせき"由来は?聖蹟桜ヶ丘「拠点駅」への道筋 明治天皇行幸の地として「観光地化」を模索

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

両社は線路の幅も違った。路面電車だった京王は東京市電(後の都電)と同じ1372mm軌間である一方、玉南は地方鉄道法に定められた1067mm軌間で建設された。京王は補助金を受け取れないばかりか直通運転もできず、まさに踏んだり蹴ったりの状態だった。

聖蹟桜ヶ丘駅の手前で多摩川を渡る京王線。この区間は玉南電気鉄道によって開業した(編集部撮影)

京王の所業は自業自得で片付けられるかもしれない。しかし、利用者にとっては府中で乗り換えを強いられるのは不便極まりない。これを解消するため、玉南は線路を1372mmへと改軌。京王と玉南の線路は一本で結ばれ、名実ともに京王は東京と八王子を結ぶ鉄道会社になった。

このような歴史的な流れや短命で幕を閉じたこともあって、玉南は長らく京王が補助金を受給するために設立したダミー会社的な扱いで語られてきた。玉南の資本金のうち約4割を京王が出資し、初代社長に京王の井上篤太郎が就任しているところからも、そのように見られる一面があることは否定できない。

実は独自の沿線開発も推進していた

しかし、細かく玉南を見てみると必ずしもそうとは言い切れない部分もある。資本金の残り6割は初代多摩村(現・多摩市)の村長・富澤政賢や、東京府(現・東京都)の府議会議員で後に田中義一内閣で鉄道大臣を務める小川平吉など、地元の有力者を中心に住民たちが資金を出し合った。こうした地域の有力者たちが創立委員や常任委員に就任し、経営に大きく関与する。その方針は玉南の経営に色濃く反映され、独自の沿線開発が積極的に進められた。

玉南の関係者で特に注目されるのが、初代多摩村の村長を務めた政賢だ。富澤家は多摩の名家で、政賢の孫は初代多摩町長・市長を務めた政鑒(まさみ)、父の政恕(まさひろ)も庄屋として多大なる名望を得ていた。

玉南の設立にも関わった政賢は、早くから鉄道に着目していた。1889年に甲武鉄道(現JR中央線)が立川駅―八王子駅間を開業させるが、多摩村は通らなかった。政賢は甲武鉄道に対抗するため、1896年に「東五鉄道」を計画。これは東京の赤坂と多摩の五日市を結ぶ鉄道で、玉南にも出資した小川平吉も協力している。東五鉄道は実現しなかったが、富澤が玉南の設立以前から多摩村の振興に尽力していたことがうかがえる。

また、政賢は多摩川で採取される砂利にも将来性を見いだしていた。当時、東京都心部の建物は次々とコンクリート造りへと建て替えられていた。コンクリート建築には、原料である砂利が欠かせない。多摩川は大量に良質な砂利が採取できるうえ、東京中心部に近いという運搬上のメリットもあった。

次ページ郊外観光地としての開発を模索
関連記事
トピックボードAD
鉄道最前線の人気記事