勇退「いえぽん」命の危険感じても審判続けたワケ 時には批判を受けた家本政明氏を支えた妻の言葉

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今季最終節の横浜-川崎F(4日、日産スタジアム)が、最後の仕事だった。担当試合が事前に発表されていたこともあり、スタジアムには、ねぎらいの横断幕も掲げられた。試合後には、両チームの選手が花道で送り出してくれた。「まだ道半ば。でも悪い方向には行っていない。じゃないと、あんなイベントはない。あの試合に集約されていた」と信念は揺るがない。

「審判とは?」との問いに家本氏は「格好つけた言い方に聞こえるかもしれませんが」と前置きした上で「美しいものでした」と答えた。「フットボールは美しい。そういう世界をつくりたかった。99%はつらかったですけど」と笑った。

ピッチ外でも、美しさを求め続けた。大好きなロードバイクにまたがり、富士山の周囲を走ったことも。試合前には、大好きなアロマの香りで心を整えた。「妻が詳しくて、分からない」と言いながらも、ラベンダー、レモングラス…と多くの種類を挙げた。ピッチ上で美の世界を形成するため、ピッチを離れた時間は美しいモノに触れ合った。

「家本パパ」も華麗で在り続けた。子どもたちには、常にロジカルに向き合った。「僕は面倒くさいですよ」と笑った。「子どもたちには、常に問う。何で? どういう感情がでていて、どう解決するの?」。長男は、考察に多く時間を割くようになった。「ピッチ上では質問はしませんが」と笑いも忘れなかった。

かつてはファンから「嫌われた」審判

ユニークな審判も、かつてはファンから「嫌われた」審判だった。06年にはJ1リーグ戦14試合で71枚のイエローカードを出し、1試合平均は同年のJ1主審最多となる5・07枚、同最多7人を退場させた。08年のゼロックス杯鹿島-広島戦ではPK戦で3度の蹴りなおし、イエローカード11枚、退場者3人を出した。後日、審判委員会から「試合をコントロールできなかった」とされ、Jリーグ試合の無期限割り当て停止処分を科された。

そんな男が、いつの間にか「いえぽん」と愛されるようになった。17年以降は、1試合平均警告を5年連続で1枚以下にとどめ、イメージをガラリと変えた。「若い時はレフェリーでした。極力ゲームを邪魔しないように」と、始まった審判生活。「ただ、指導、審判せざるをえない、難しい状況になっていた。審判をしてはいけない。どうやって、レフェリーをするか」とカード連発の日々を振り返った。そこで自らスタイルを「変化しました」と言った。

「審判は裁くイメージ。裁判官、警察を連想する。上からコントロール、圧を感じるイメージを持つ」。レフェリーは英語の「Refer(委ねる)」が語源。「選手が主役。解決できない問題、お願いされた時は」という美学を取り戻した。妻の「あなたは、あなたのままでいい。ずっと支えていくから」という言葉も心の支えであった。

「レフェリーに始まり、審判となり、レフェリーで終わった」。山あり谷ありの現役生活を振り返った。「いえぽん」は、これからも思いを伝え続ける。フォロワーから、委ねられたレフェリーとして。

○…家本氏は「審判をやっていなかったら?」の問いに「スポーツビジネスに興味があった」と考え込んだ。「サッカー以外に興味がある競技は?」と尋ねると「ラグビーの審判はやりたかった」と言った。今後は「僕だけが見た世界、経験したことがある。具体的にどう戦略を持って表現していくか考えたい」と広く伝えていく。まず始めるのはテニス。「妻が学生時代からやっていて、娘もやっているので。仕事しろって話なんですけどね」と笑ってみせた。

◆家本政明(いえもと・まさあき)
1973年(昭48)6月2日、生まれ。広島県出身。96年に1級審判員となり、02年からJリーグ担当。05年に史上6人目、最年少の31歳でスペシャルレフェリーに認定され、16年まで国際主審を務めた。J1では338試合、J2で176試合、J3で2試合の主審を務め、計516試合は歴代最多。副審としてもJ1とJ2でそれぞれ通算3試合。

 

(取材・文/栗田尚樹)

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