時間ないと嘆く人がわかってない「80:20の法則」 すべての作業が平等に重要なわけではない
このように人間離れの活動を自分に強いている状態は、短期的には成果を挙げているようにみえるかもしれませんが、人生を長い目で見て変えることにはつながりません。
車で旅をするときに、燃費を悪くするほどの荷物が積んであるなら、それを降ろしても旅が続けられないか検討するはずです。目的地への近道があったとしたら、その近道をとった結果見逃すものを秤にかけながら道を選ぶでしょう。すべては、何を選ぶかの選択にかかってきます。
逆に、仕事や日常で時間の利用方法が混み合いすぎていて、それ以上何もできない、調整ができない状態は交通渋滞に似ています。道の選択はできませんし、いまさら逃れる方法もありません。
そこで時間管理においては、最初に渋滞の状況を確認するために時間の見積もりを正確にし、次に時間の使い方を選択できる能動的な状態を生み出すことが目的になります。
時間管理とは、どれだけ忙しくできるかではなく、与えられた状況のなかでどれだけ自由を生み出せるかと言い換えてもいいでしょう。
そのうえで、生み出された裁量の窓を長期的に向かいたいと思っている航路に向けるために、行動を入れ替えていくこと。つまりは、抱いている目標と時間の使い方にアラインメントがとれている状態を増やすのが、本質的な時間管理になります。
どうしても必要となる日常の時間を正確に把握する
マルセル・プルーストは『失われた時を求めて』の作中で「われわれが毎日自由に使える時間は、融通無碍である。自分が情熱に燃えているときは膨らみ、他人から情熱を寄せられるときは縮まり、あとは習慣がそれを満たしている」(吉川一義訳、岩波文庫版より抜粋)と、多少突き放した言葉を残しています。
他人に強いられた「縮んだ」時間と、自分が求めてやまない「膨らんだ」時間、そしてどうしても必要となる日常の時間、それらを正確に把握し、航路を探すこと。これが時間管理の原則です。
時間管理に関するもう1つの原則は、私たちが時間に対してもっている認知の歪みから来ています。ある作業にどれだけ時間が必要なのか、どれだけ時間がかかったのかの認識自体に壁が存在する点です。
トーマス・マンの『魔の山』で、作者は主人公ハンス・カストルプが従兄弟(いとこ)を見舞うために高原のサナトリウムを訪問した最初の3週間を描写するのに数百ページを費やしたあとで「あとの三週間はあっというまにあとにされ、片付けられてしまうだろう」と驚いてみせます。作中で3週間が過ぎているのは同じなのに、もちろんそこに最初の3週間ほどの重要性がないのは時間の神秘だと、皮肉っぽく書いています。
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