――確かに、一生さんのインパクトや影響はとても大きかったと思います。
それから、一生さんは、私が当時、伺ったかぎりでは、あまりファッション業界の人たちと交流していませんでした。好んで付き合われるのは、建築家、アーティスト、プロダクトやグラフィックデザイナーの方、そして文化人など、たとえば白州正子さんなどとも仲良くされていましたが、とにかく普通のデザイナーが好むような華やかで表面的な社交が、一生さんはあまりお好きではないのだと思いましたね。
おそらく耀司さんと川久保さんが一生さんから学んだことは、ファッション界の中での距離の取り方と、人のそろえ方。ブレーンの集め方。今、思ってもすごいですが、初めからそうとうな人々とのつながりを作っていました。
ブレーン的なネットワークがあった
――事実、デザイナーのビジネス面をサポートするパートナーがいる(いた)というのは、ファッション業界の定説です。たとえば、故イヴ・サンローラン氏のピエール・ベルジェ氏、ジョルジオ・アルマーニ氏の故セルジオ・ガレオッティ氏、トム・フォード氏のドメニコ・デソーレ氏など、彼らはデザイナーがクリエーティブな仕事に専念できるよう、環境を整えました。ですが、ここでは、もう少し広範囲の人々を巻き込んだというイメージでしょうか。
メディアや文化人、インテリなど、有名無名を問わず、さまざまな階層の人によるネットワークです。特にブランドの揺籃期に、誰を巻き込むかが、後に大きな意味を持ってくると思います。たとえば、川久保さんが旭化成にいらしたときの同僚に、もうお亡くなりになられてしまいましたが、小指敦子さんという方がいらっしゃいました。
小指さんは、伊勢丹研究所を経て、『マリクレール・ジャポン』のファッションディレクターになった人ですが、この人が川久保さんの才能を認め、ブレーンのような位置にいたというのはとても大きいと私は思っています。おそらく要所要所で川久保さんにアドバイスをされたり、異業種の人に紹介したり。幅広い人脈を持った人が、ある時はブレーン的に、ある時はスポークスマン的な役割を担うことで、ご本人が言うと直接的になりすぎることも緩和できます。そしていろいろな人たちのいろいろな動きが発展し、1滴の水滴が大きな波紋になるように、1ブランドとしての枠を超えた広がりをみせました。
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