台湾・李登輝が「戦前日本を賛美した」胸のうち 近現代日本は台湾にとってどんな存在だったか

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張有忠さんが亡くなって間もない2007年秋、李登輝前総統との会見が実現した。李登輝は、その年の初夏に訪日し、徴兵され日本軍兵士としてフィリピンで戦死し、遺骨どころか遺髪さえ戻らぬままの兄、李登欽(日本名・岩里武則)の霊を祀る靖国神社に初めて参拝した。松尾芭蕉の「奥の細道」をたどる念願の旅も果たしていた。

ジュネーブに赴任した翌1994年、総統としての李登輝が作家・司馬遼太郎との対談で「台湾人に生まれた悲哀」を語ったのを読み、いつかは会ってみたいと思っていた。

李登輝との会見は、台北市内の私邸で午後遅くから時間制限なしで始まった。尋ねてみたかったのは、その日本への思い、日本の記憶だ。日本の伝統的価値観を賛美し、極めつきの親日政治家と見られていた。そのせいか、日本の右派が秋波を送っていた。

しかし、日本統治時代を生きた人である。「親日」と言っても、そう単純なものではあるまい。その機微を対談で引き出したのが司馬であり、象徴的な言葉が「台湾人に生まれた悲哀」だ。

私邸の広い応接間の大きなソファーセットで向き合った李登輝は、くつろいだベージュ色のジャンパー姿。当時84歳だったが、持病の心臓病などおくびにも見せないかくしゃくぶりだ。

対話はすべて日本語だった

準備体操代わりの世間話のつもりで、国際情勢に水を向けてみたら、「外交の専門家ではないが」といいながら、当時泥沼化していたアメリカの対イラク戦争に始まり、立て板に水で滔々と論じはじめた。明晰な頭脳に舌を巻いた。

対話はすべて日本語だった。日本統治下で「公学校」(台湾での初等教育)、旧制中学、旧制高校へと進み、戦時中に京都帝国大学へ入学した。当時の日本人のごく一部しか享受できなかったエリートコースを歩んでいる。

「ご自身と日本の関わりを象徴するものは何ですか」。アジアの要人と会うときには必ず挟む質問を投げかけたら、すかさず「それは日本語」と答えた。李登輝にとって、最も流暢に話せる言語は日本語と噂されるくらいだ。

そこから李登輝は、戦前日本の教育の賛美を始めた。このペースで戦前日本賛美が続くと、はるばる会いにやって来た意味がなくなりそうだ。聞きたかったのは、「台湾人に生まれた悲哀」だ。

「日本の統治が素晴らしいものを残したのは事実でしょう。でも、否定的な側面もあるはずです」。そう切り返すと、「それはある」とすぐ応じてきた。それまでの戦前日本賛美が断固たる調子だったので、こちらが意表を突かれるほどだった。

「日本も外来政権だ。日本人と台湾人の区別が厳然とあった。その区別が、台湾人の心の中に不公平感を残した。結局われわれ台湾人はマージナルな人間だ」。「差別」でなく「区別」と表現したところに、政治家らしい配慮が窺えた。

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