台湾・李登輝が「戦前日本を賛美した」胸のうち 近現代日本は台湾にとってどんな存在だったか
「台北高等学校時代の話だ」。李登輝が一例として語り出したのは、母にまつわる思い出だった。母、江錦は戦後1946年5月、李登輝が京都帝大から台湾に戻って台湾大に入り直したところで、戦時中の過労からの病で亡くなっている。
「母は田舎の女だったから、いつも台湾服を着ていた」。台湾人の女だとひと目でわかる服装だ。それだけで、日本人から蔑みの目を向けられる。
「あるとき、母親を田舎から呼んで、『菊元』という百貨店に連れて行った。4、5階建てだったか。店の中を母と一緒に、歩いて歩いて、母親の好きなものを見せてやってね」。菊元百貨店は、1932年に台湾初のデパートとして台北の中心部に開業した。
「そのときの私の思い、わかりますか」。学生が田舎の母に都会の繁華を見せる。普通のことだろう、と思ったのは浅慮であった。李登輝の答えにまた意表を突かれた。
「私は制服制帽を着けて母と歩いた。(周りの日本人に)こう言いたかった。母は、あなたたちが見下げる台湾の田舎の古い人間かもしれない。だが、息子は高等学校の学生だ。立派な息子を産んだんだ。それを見せるんだ……むかしはそういうところに、精神的につらいところがあった」
2020年7月この世を去った
当時の旧制高校生の数は2万人程度、こんにちの大学生数が260万人というから、いかにエリートだったかがわかろう。日本の教育制度の中で頂点を極めることで台湾人として味わう不公平感に折り合いをつけていくが、それでも埋めあわせられないものがある。「精神的につらいところ」というのは、そういうことか。
つらかった差別の思い出を聞いて、李登輝の日本賛美は、ことによると「戦略的」なものではないかと思えてきた。台湾がまた中国(外来政権)にのみ込まれることなく民主化を進めるには、あなたたちに頼るほかないことを理解してほしい。だからしっかりしてほしい。そう訴えかける巧みなメッセージだったのだろう。
自分は単純な日本賛美者ではありませんよ、あなたが知識人なら当然わかっているでしょうね、と言いたかったのだろう。それが「台湾人に生まれた悲哀」なのです、と言いたかったのかもしれない。
2020年7月。香港の自由と民主主義が失われゆく中、その時点ではおそらく世界で最も成功したといってもいいコロナ禍への対策をとる台湾を見届けて、李登輝は逝った。
ポピュリズムや忖度政治で混迷する欧米や日本の民主主義を尻目に、この年1月の台湾総統選は大きな混乱もなく、民主勢力の女性総統を再選した。女性指導者に国を委ねるという点でも、日本がまだできていないことを台湾民主主義は達成している。
李登輝と張有忠さんという2人の台湾人に、近代日本をどう考え、前に向かって行くべきか、手掛かりを示してもらった気がしている。
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