台湾・李登輝が「戦前日本を賛美した」胸のうち 近現代日本は台湾にとってどんな存在だったか

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李登輝と張有忠さんはともに日本で1945年の終戦を迎える。

帰国後、李登輝は台北帝国大学を再編し改称した台湾大学へ編入、張有忠さんは請われて故郷台南で検察官となった。

台湾に戻って約1年後、2人は二・二八事件に遭遇することになる。映画『悲情城市』を見れば、当時の殺戮のおぞましさを感覚的に知ることができる。

このとき敵対したのは日本統治時代から台湾にいる「本省人」と日本の敗戦後に大陸から入ってきた「外省人」だが、この映画の監督である侯孝賢は、1歳で大陸から移住してきた外省人だ。彼がこの映画をつくったことに、台湾が目指す国民和解の一端がのぞく。李登輝(本省人)に会った際、次のように語っていたのも思い出す。

「われわれ本省人は外省人を差別したくない。彼らは李登輝が嫌いだ。でも、大陸から来て行き場のない彼らに同情する。ここにいてもらっていい。彼らも、この島で400年、自分の政府と国を持てなかった台湾人に同情をしてほしい。互いに同情しあい良い台湾にしたい」

二・二八事件の際、李登輝は多くの台湾大学生と同様に避難し、亡き母の実家に身を寄せていたという。事件については多くを語っていない。

張有忠さんは「中華民国検察官」として事件に遭遇した。板挟みのような状況だった。外省人側の警察によって内乱罪で次々と捕らえられ送検されてくる本省人たちを取り調べなければならない。本省人たちの陳情が来たが一切とりあわなかった。

しかし「日本で大学時代から教わったとおりに、すべて証拠に基づき捜査し」、結果として証拠不十分で、ほとんどの被疑者を不起訴処分で釈放したと、後年語っている。張有忠さんはやがて検察官を辞め、弁護士となる。

1949年10月大陸で共産党政権が誕生

1949年10月に大陸で共産党政権が誕生すると、蒋介石の国民党政権は台北に首都を移し、それを前に台湾では戒厳令が敷かれて、1987年に解除されるまで40年近く、世界最長といわれる戒厳体制が続いた。

台湾人知識人たちの一部は台湾を去りはじめ、張有忠さんも悩んだ末、1964年に台湾を去り、「第二の祖国」日本に移り住んだ。台湾籍を捨てる気はなかった。そのまま、大阪弁護士会に出向いて、開業のため登録を申請すると、関西では初のケースで資格審査に時間がかかったが、開業できるとわかり、大阪で弁護士として活動した。

戒厳令が解けると張有忠さんは随時、台湾へ帰国するようになり、1988年秋には総統代行として民主化を進めだした李登輝と会っている。その際に台湾法の日本語訳出版を提言した。国交はなくとも日台の人や経済の交流は拡大する一方で、法律相談もひっきりなしだったからだ。

李登輝の依頼で張有忠さんが邦訳の任に当たり、数年をかけ独力で『日本語訳 中華民國六法全書』を完成させ、1993年夏に日本評論社から刊行した。その後、中国人留学生寮「光華寮」の所有権をめぐる中国と台湾の長期訴訟でも台湾側の代理人をながく務め、最高裁での実質的な台湾敗訴後まもない2007年8月、92歳で亡くなった。

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