「アンチ衛生パス」運動で揺れるマクロン大統領 自由と進歩が民主主義から遠ざかるフランスの実状
マクロンなる人物が、世間に知られるようになったのは、2007年当時のサルコジ大統領が新自由主義を導入するために組織したジャック・アタリ(経済学者、思想家、作家)を委員長とする「成長のための委員会」の末席に着いてからであった。その成果は報告書として、『フランスを変えるための300の決定』(項目は316)として翌2018年に出版された。この書物にはなぜか写真が多く掲載されている。まだ自信のなさそうなマクロンが、大勢の人々と写っている。
しかし、実際の執筆では、マクロンはその序文にあたる導入部分を執筆したのだという。この報告書が出されるやいなや、フランス中でデモが吹き荒れた。それもそのはずである。導入部分は、極めて自信ありげな言い回しで、フランスの置かれた現状をまさに上から目線で厳しく査定する。そして、これは単なる報告書ではなく、これから必ず実行する政策だと主張する。グローバル化を推し進めれば、フランスは豊かになるというのだ。「豊かになることは恥ずかしいことではない、恥ずかしい唯一のことは、貧しいことだ」(12ページ)と、高らかにうたう。そして、豊かになるために、国家に頼るのではなく、自ら責任を持つことが重要であると述べたのである。これでは民衆が怒るのも当然である。
著名な年配者に近づいて利用したマクロン
この委員会報告の実践は、サルコジの次の大統領選での落選でいったん終わる。しかし、マクロンは、今度は次の大統領オランドに乗り換え、地位も上昇して再登場する。オランド政権の経済大臣に収まるのだ。
マクロンは、著名な年配者に近づき、彼らを利用するのが上手だ。「わらしべ王子」の話のように、少しずつ上昇していく。パリ第10大学の哲学者リクールの秘書から、ミッテラン元大統領の顧問官だったアタリ、そしてオランドと、徐々に権力の中枢へとすり寄っていく。
経済大臣として、さっそくアタリ委員会の316項目の改革を実践しようとする。しかし、それがかなわぬとなれば、大臣職を捨て、今度は自ら大統領選に挑む。最初は泡沫候補であったマクロンが、オランドの立候補取りやめ、当時の首相のマヌエル・ヴァルスの不人気、サルコジ時代の首相フィヨンのスキャンダルなどで、いつのまにか有力候補に躍り出る。
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