「庶民的イメージ」の蒲田は昔"田園都市"だった 渋沢栄一も意識した?近代的「理想郷」の整備
それほどの理想郷だけあって、田園都市を推進していた内務省も吾等が村を大いに参考にした。1921年、内務大臣の床次竹二郎は公爵議員の近衛文麿、内務省社会局長の田子一民を伴って吾等が村を視察。この視察は工場ではなく、住宅地としての吾等が村を目的にしていた。そうした点からも、内務省が住環境の改善に試行錯誤していたことがうかがえる。
蒲田駅周辺は、吾等が村が呼び水となって工業化が進んだ。同時に多くの人が集まる繁華街が形成されていく。東口には映画監督・小津安二郎や女優・高峰秀子などを輩出した松竹蒲田撮影所がオープン。多くの映画関係者でにぎわい、流行・文化をリードする街になっていく。
その一方で、繁栄を牽引してきた工場から排出される煤煙や汚水が生活環境を悪化させた。皮肉なことに、工場からの大騒音は映画の撮影に支障をきたした。撮影所は1936年に大船へと移転。こうして、理想郷でもあった蒲田からは田園都市のイメージが薄らいでいく。
蒲田の田園都市に貢献した吾等が村は空襲で社宅が被災。工場は戦火を免れたが、それを理由にGHQから多大な財産税を課され、残った銀座のオフィスは接収された。こうして吾等が村は幕を下ろした。
羽田空港近隣の街として注目
戦災による焼失もさることながら、蒲田駅は戦後もその傷痕をひきずった。蒲田駅は羽田空港の至近にあるため、GHQは東京駅から羽田空港へと直通する列車を走らせるよう指示。蒲田駅から京浜蒲田(現・京急蒲田)駅を通り空港への路線を建設することになった。国鉄と京浜電鉄の軌間は異なるためにそのままでは直通できず、国鉄に合わせて京浜の線路は1067mmへと改軌。同時に蒲田駅のホームも大幅に改良が加えられている。
さまざまな苦難を乗り越え、昭和30年代の蒲田はものづくりの街として高度経済成長を支えた。蒲田は一大消費地である東京と臨海部に大工場が並ぶ川崎に挟まれた立地特性から、多くの町工場で活性化していく。昭和40年代には商業地化が進み、東急の蒲田駅は区画整理事業と同時に改築。1968年には5面4線の頭端式ホームとなり、利便性が高まった。
一方、目蒲線の蒲田―目黒間という動線は時代に適合しておらず、長らく存在感が曖昧になっていた。東急は営団地下鉄(現・東京メトロ)南北線・都営地下鉄三田線との相互乗り入れを機に、目蒲線を目黒線と東急多摩川線に分離した。
近年、羽田空港の存在感が高まったこともあり、東京都や地元の大田区は蒲田駅から京急蒲田駅を経て羽田空港へアクセスする新空港線(蒲蒲線)の整備を検討している。同計画は、皮肉にもGHQが強制的に建設した羽田空港への直通路線の再現でもある。クリアしなければならない問題は山積しているが、実現の可能性も含めて今後も蒲田駅に熱い視線が注がれることになるだろう。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら