「庶民的イメージ」の蒲田は昔"田園都市"だった 渋沢栄一も意識した?近代的「理想郷」の整備
横浜植木は1890年に鈴木卯兵衛が横浜で創業。それ以前から、
プラントハンターは、依頼主が好みそうな世界各国の珍しい花や木などを集めることを使命とする。それを察知した鈴木は、植物が輸出品になると考えた。外国人とやりとりするうち、鈴木は海外でユリが人気であることを突き止め、主力商品として販売した。ユリの販売で、横浜植木は急成長を遂げていく。
成長軌道に乗った横浜植木は、ユリ以外にも新たな輸出品を検討した。その結果、花菖蒲に着目する。横浜植木は菖蒲を栽培する地として磯子に菖蒲園を開設。しかし、磯子菖蒲園は手狭だったこともあり、すぐに広大な新天地を探すことになる。そこで白羽の矢が立ったのが、農村地帯の蒲田だった。1903年、横浜植木によりに約3万坪の蒲田菖蒲園が開設された。
菖蒲園が駅開設のきっかけに
菖蒲園はたちまち人気を呼び、東京や横浜から多くの花見客が押しかける名所になった。しかし、農村地帯にオープンした蒲田菖蒲園は交通の便が悪い。地元からの要望を受けて、鉄道当局は翌年に蒲田駅を開業した。
蒲田駅の開業を機に、にぎわいという点で大森の後塵を拝していた蒲田の巻き返しが始まる――といいたいところだが、そう簡単に蒲田の街は発展しなかった。
先述したように、東海道本線は汽車による運行で、運転本数は決して多くない。そもそも明治末の鉄道需要はそれほど多くない。いくら菖蒲園を目当てにする行楽客が殺到したと言っても、それだけで農村地帯が劇的に都市化することはない。
それでも、蒲田駅が開業したことにより交通アクセスが飛躍的に向上し、駅周辺に変化の兆しが出ていたことも事実だ。そうした変化に着目した人物がいる。それが、国産の和文タイプライターの製造・販売という事業を興した黒沢貞次郎だった。
黒沢は明治期にアメリカに渡り、そこでタイプライターと出会う。黒沢はこれが必須の道具になると踏み、帰国すると黒沢商店を創業。京橋区(現・中央区)にオフィスを構えた。電信の普及や書面作成といった需要を捉えたタイプライターは、たちまちヒットした。明治期から政府が力を入れ始めていた盲唖教育でもタイプライターが活躍し、想定外の需要を掘り起こすことにもつながった。
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