「庶民的イメージ」の蒲田は昔"田園都市"だった 渋沢栄一も意識した?近代的「理想郷」の整備

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当時のタイプライターはアルファベットを打つことしかできず、和文の作成はできなかった。黒沢は和文の需要が増えることを見越し、和文タイプライターの研究を重ねていく。1912年、黒沢はタイプライターの生産を拡大するために、広い敷地が確保できる蒲田駅の隣接地に工場を開設した。

黒沢商店が購入した敷地は、最終的に約2万坪にまで拡大した。現代風に例えるなら企業城下町といった趣で、敷地は単なる工場地ではなかった。そこには工場という作業場だけではなく、社宅・自動車庫・農園・公園・学校・変電所・消防小屋といった共有・公共スペースも整備されていた。

現在の蒲田駅西口。「吾等が村」などが立地した(筆者撮影)

従業員のみならず、生活をともにする家族たちによって自然発生的にコミュニティが生まれる。こうして黒沢村が形成された。

黒沢商店では社内報「吾等が村」を発行していたこともあり、蒲田の工場および一帯の生活空間は吾等が村と呼ばれるようになる。

農村に出現した「田園都市」

農村地帯に忽然と出現した吾等が村は、自然が豊かという点から注目される住環境だったが、それ以上に目を引いたのが職場と近接している点だった。当時、住居と職場は一体化しているのが一般的で、内務(現・総務)省は生活・労働環境を改善するべく職住を分離する政策を進めていた。内務省は職住分離した理想の都市像として、田園都市という概念を海外から取り入れ、それを普及させようとした。

田園都市は、イギリスの社会学者だったエベネザー・ハワードが提唱した理想的な都市像を指す。当時のロンドンは著しい工業の発展に伴い人口が急増。その反面、工場の排煙・排水による大気汚染や水質汚染などが激化して住環境は劣悪を極めていた。ハワードは住環境を改善すべく、自然豊かな郊外に家を構えて自宅の近くで働くことを提唱した。

内務省はハワードの考え方に倣ったわけだが、イギリスの田園都市の思想は日本へと輸入される際に日本風にアレンジされた。そのため、日本に根づいた田園都市は、ハワードのそれとは異なった都市像・生活スタイルになっている。

今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、多くの企業を興して資本主義の父と呼ばれる。しかし、それは91歳まで生き抜いた渋沢の一面にすぎない。渋沢は、我が子のように育ててきた第一銀行(現・みずほ銀行)の頭取を1916年に辞任。以降、1931年に没するまで企業の創業・経営といったビジネスの一線から退き、医療・福祉・教育・国際交流といった非営利事業に没頭する。

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