「庶民的イメージ」の蒲田は昔"田園都市"だった 渋沢栄一も意識した?近代的「理想郷」の整備

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渋沢は生涯最期の夢として描いていた田園都市の実現のため、1918年に田園都市株式会社を発足させる。同社の経営において渋沢は前面には立たず、関西鉄道(現・JR関西本線)や東京馬車鉄道(現・東京都交通局)などの経営者として名を馳せた中野武営に社長を任せた。

渋沢よりも早く田園都市を実現させていたのが吾等が村だった。黒沢商店が蒲田で工場の操業を開始すると、その隣接地に洋食器製造販売の大倉陶園が本社を構える。創業者の大倉和親は森村組で働き、同社も森村財閥の流れを汲む。その森村財閥の創業者でもある6代目・森村市左衛門は営利・非営利を問わず、渋沢と多くの事業を共同で手がけている。

大倉陶園の工場地には、社宅が完備されたほかチューリップやヒヤシンスなどが植栽される花園が設けられた。そのため、周辺住民からは「お花畑の工場」と呼び慕われる。同社が進出した後、大倉陶園から支援を受けた各務クリスタル製作所も工場を進出。黒沢商店を中心に、蒲田は工場街へと急速に変貌していく。

渋沢は「吾等が村」を意識した?

蒲田が工場街へと変貌していく過程で、見逃せないのが電化だ。工場では大量の電気を使った。だから吾等が村に変電所が設置されたのだが、その前提として蒲田一帯に電気を供給する発電所がなければ話にならない。

電力の供給は、大森より1年遅れたものの蒲田エリアでも1907年に開始。さらに鉄道院(現・JR)が1914年に蒲田駅に隣接して矢口発電所を開設した。同発電所により電気が十分に確保できるようになったため、官営鉄道は汽車の東海道本線とは別に、近郊路線として京浜電車(現・京浜東北線)の運行を開始した。

蒲田駅を発車した東急多摩川線の電車。同線はかつて目黒―蒲田間の「目蒲線」の一部だった(撮影:尾形文繁)

渋沢は田園都市の宅地造成の傍らで、住民の足として目黒蒲田電鉄(現・東急電鉄目黒線と東急多摩川線の前身)を設立。にぎわう大森ではなく農村地帯でしかなかった蒲田を目指したのは、一帯に電気が供給されていた点が一因としてある。しかし、すでに大森にも電気が供給されていたことを考えれば、それだけが蒲田を選んだ理由にはならない。

実際、渋沢は1885年に東京府東京瓦斯(ガス)局から大森製造所の払い下げを受けている。大森製造所は大田区における近代工業化の嚆矢とされるほど大型機械を有する工場だった。そんな縁のある大森へと進出せず、蒲田へ鉄道を敷設した。

そこには、渋沢が田園都市のモデルのような吾等が村を少なからず意識していたのではないか?という推測が成り立つ。

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