東武と国鉄が火花、「日光」の観光は鉄道が育てた 外国人に根強い人気「連合国専用列車」もあった

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東京と宇都宮の距離が近くなったことで、にわかに日光ブームの兆しが見え始めた。その頃、矢板武や安生順四郎、印南丈作といった栃木県の有力者たちによって、日光の社寺建築を保全する団体「保晃会(ほこうかい)」が立ち上げられる。彼らは後に那須野が原開拓を推進することになるが、保晃会は幕府の庇護下から離れていた東照宮を支援することを目的にしていた。

日光を代表する観光名所の1つ、東照宮の陽明門(写真:gandhi/PIXTA)

発足直後の保晃会には目立つような活動はなかったが、1876年の東北巡行の途中に明治天皇が日光に宿泊し、名所や社寺を巡覧。さらに1879年には、伊藤博文が来日したユリシーズ・グラント第18代アメリカ大統領を日光へと招待。グラントが絶賛したことで、日光は広く知られるようになる。こうして保晃会の活動は地元の銀行のみならず、東京を拠点とする第一銀行、三十三銀行からも経済的な支援を受けられるようになった。

鉄道開業で身近な観光地に

そして、一般庶民にとって日光を身近にしたのは鉄道の開業だった。

日本初の鉄道である新橋(後の汐留駅)―横浜(現・桜木町)間が1872年に開業すると、全国各地で鉄道建設を求める声が相次いだ。だが、政府は同区間の建設に莫大な費用を投じたため、経済的な理由から各地で要望があった新規路線の建設を凍結していた。そうした事情もあり、1883年に民間資本による日本鉄道が設立された。

日本鉄道はまず上野駅―熊谷駅間を開業し、翌年には高崎駅まで延伸。日本鉄道が高崎方面を目指したのは、上州で生産される生糸を輸出港の横浜へと迅速に運搬することが目的だったからだ。本来は東北地方を目指していたので、以降は上野―高崎間の途中にある大宮駅から線路を分岐させ、東北方面へ線路を延ばしていく。

そして、1885年に大宮駅―宇都宮駅間が開業した。開業時は利根川橋梁が未完成のため船による連絡を要したが、それでも馬で約12時間を要した同区間は約5時間に短縮。翌年に利根川橋梁が完成すると、さらに所要時間は短くなった。

東京と宇都宮が鉄道で結ばれたことで、日光は多くの外国人観光客でにぎわうようになる。しかし、東京から向かう旅行者は宇都宮で1泊する必要があった。そのため、東京の人々にとっては「日光は遠い」というイメージが残っていた。それを解消したのが1890年に開業した日光鉄道(現・JR日光線)だった。

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