東西ドイツとベルリン、「壁」崩壊前の鉄道の実態 当時の時刻表を使って利用状況を読み解いた
新型コロナウイルスの感染拡大がなかなか収束せず、「今年も海外旅行に行けないのか……」と思ったのは筆者だけではないと思う。ステイホームを強いられる中、たまには昔の海外時刻表を使ってタイムスリップな紙面海外旅行をするのはどうだろうか。冷戦期における東西ドイツのタイムスリップ旅行を取り上げる。
南北朝鮮とはまったく異なった東西ドイツの交通事情
時刻表を見る前に戦後の東西ドイツの歴史と交通事情を確認する。第2次世界大戦終了後、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国に占領された。
1949年、アメリカ、イギリス、フランスの占領地域を領土にする自由主義のドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連の占領地域を領土にする社会主義のドイツ民主共和国(東ドイツ)がそれぞれ建国され、ドイツは東西に分かれた。同様に西ドイツには西ドイツ国鉄(DB)、東ドイツには東ドイツ国鉄(DR)が創設された。
またナチス・ドイツ時代の首都ベルリンも東西に分かれた。西ベルリンはアメリカ、イギリス、フランスが、東ベルリンはソ連が占領した。もっとも、1949年以降は事実上、西ベルリンは西ドイツ、東ベルリンは東ドイツが管理することになる。ベルリンの壁が築かれた1961年以前は東西ベルリン間の行き来は原則として可能であり、東西ドイツを結ぶ直通列車も存在した。
大きな転機になったのは1961年のベルリンの壁建設である。当時、東ドイツ政府は経済格差などにより、東ドイツ国民が西ベルリン経由で西ドイツへ流出する現象に頭を悩ませていた。そこで西ベルリンを囲むようにして壁が築かれ、東西を結んでいたSバーン(近郊列車)は寸断され、東ベルリン側にあったUバーン(地下鉄)の一部の駅は閉鎖された。
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