東西ドイツとベルリン、「壁」崩壊前の鉄道の実態 当時の時刻表を使って利用状況を読み解いた

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しかし今日の南北朝鮮とは異なり、完全に東西間の往来が寸断されたわけではなかった。1972年には東西ドイツがそれぞれの存在を認め合う「東西ドイツ基本条約」が締結され、東西ドイツ間の交通に関する交通協定も結ばれた。これにより、西ドイツ国民は東ドイツに住む親戚や知人を訪ねる定期的な訪問や観光旅行が可能になった。

一方、東ドイツ国民は緊急の家族要件に限り西ドイツへの渡航は可能になったが、厳しく制限されることに変わりはなかった。ただし年金生活者に限り、西ドイツへの移住が可能だったことはあまり知られていない事実だろう。

以降、紆余曲折を経ながらも1989年のベルリンの壁崩壊まで上記のシステムが継続されることになった。1980年代には財政面で西ドイツが東ドイツを援助する見返りとして、西ドイツ国民の東ドイツ訪問はより容易になった。一方、東ドイツ国民が西ドイツを訪れることは相変わらず難しく、1961~1989年に約140人がベルリンの壁周辺で命を落としたことを付け加えたい。

2パターンの東西ドイツ直通列車

このようにベルリンの壁建設後も東西ドイツ間では人の往来は存在した。そのため東西ドイツ間の直通列車も設定されていた。

1989/90年版と1990年/91年版の東ドイツ国鉄時刻表(筆者撮影)

ここでは1986年版「トーマスクック時刻表」と1989/90年版・1990年/91年版「東ドイツ時刻表」を使って直通列車のダイヤに迫る。

東西ドイツ間の直通列車は西ドイツ―西ベルリン間(東ドイツ領内は無停車)と西ドイツ―東ドイツ間に分けられる。

1986年版トーマスクック時刻表を見ると、ハンブルク・ハノーファー・ケルン・ミュンヘン・フランクフルト―西ベルリン便が設定されていたことがわかる。列車は西ベルリンにあるベルリン・ツォー駅を経由し、東ベルリン側のベルリン・フリードリヒシュトラーセ駅まで乗り入れていた。ベルリン・フリードリヒシュトラーセ駅は東西ベルリン間の「国境駅」として機能し、ここで西ドイツ国民は東ベルリンへ踏み入ったのである。

なお西ドイツ―西ベルリン間の列車は東ドイツ側の国境駅を除き、ノンストップであった。所要時間はケルン―ベルリン・フリードリヒシュトラーセ駅間が約8時間30分、フランクフルト―ベルリン・フリードリヒシュトラーセ駅間が約8時間であった。参考までに現在の所要時間はケルン―ベルリン中央駅間が約4時間30分、フランクフルト―ベルリン中央駅間が約4時間である。

西ドイツ―東ドイツ間の直通列車は主にハンブルク、ミュンヘン、ケルン、ニュルンベルクなどの諸都市とライプチヒ、ドレスデンを結んでいた。東ベルリンにあるベルリン・リヒテンベルク駅へ乗り入れる列車も存在したが、基本的には主要都市間を結んでいた。

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