在任16年の独メルケル首相とは何者だったのか 人権と環境という相反する思想を実現した政治家

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アンゲラ・カスナー(メルケルは最初の夫の姓)は、西ドイツのハンブルクの牧師ホルスト・カスナーの長女として生まれ、すぐに東ドイツに移った。父親が東ドイツのプロテスタントの牧師として、ベルリンの北の小さな町に赴任したのだ。当時新しい世界を目指して、東ドイツに移った者も多くいた。

当然ながら、父は東ドイツの思想に憧れ、彼女の家は東ドイツ下における教会組織の重鎮になる。そして彼は、キリスト教民主同盟に近いところにいた。誤解を避けるためにいうと、東ドイツはドイツ社会主義統一党(社会民主党と共産党の統一党)の一党独裁ではなく、少数派だが東ドイツ国民党や、東ドイツキリスト教民主同盟などの党も存在していた。

東ドイツについて、少し歴史をひもとこう。旧プロシアを中心とした東ドイツは、1870年のドイツ統一の主役を担った地域である。ドイツはプロシアによる統合であった。プロシアは政治的にロシアや東欧と深い関係にある。ナチス崩壊の後、1949年に東西に分裂する東ドイツは、このプロシアの血を受け継いでいる。

プロテスタントの牧師の父、東ドイツ育ち

19世紀においてプロシアが、頭角を現し、ドイツ統一へ至る過程は、ロシアと深く関係している。それを指摘したマルクスはこう書いている。

 「プロシアがドイツのたんなる一強国にすぎないというのなら、問題はきわめて簡単に決定できたであろう。ところが、プロシアはオーストリアの競争者であるばかりでなく、そしてそのオーストリアはロシアと対立しているばかりでなく、プロシア君主制の根本原則はロシアの助けを借りてドイツを蚕食していくことにある。プロシアがスェエーデンからポンメルンを奪い取ることに成功したのは、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世がロシアと同盟したことによってであった。フリードリヒ大王がオーストリア領シュレジジェンを保持することができ、またポーランドの重要な部分を手に入れたのは、これまた彼がエカテリーナと同盟したことによってである」(『マルクス=エンゲルス全集』12巻、582ページ)

 

1871年にドイツ統一が成功したのも、ある意味ロシアとの関係があったからである。そして1949年に東ドイツ地域がソ連圏に包含されたのも、戦争の結果とはいえ、ある意味必然的なものでもあったともいえる。

1989年のベルリンの壁の崩壊は、1871年と真逆の過程をたどる。1990年のドイツ再統一は、今度は西側の旧ライン連邦地域による東側の旧プロシア地域の併合だったからだ。それによってソ連、つまりロシアとの関係が寸断され、西側に引き寄せられたのだ。

東ドイツ国民は、ここで(プ)ロシア的な制度や体質から西欧社会の体質への変貌を強いられることになるのだが、経済的、精神的ショックを受ける。それは19世紀にプロシアに吸収された旧ライン連邦諸国の国民と同じであった。

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