雨上がりの解散が「リアリティショー」化した理由 破天荒な芸人より「モラリスト」が選ばれる時代

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したがって、雨上がり決死隊の二人が素の自分を見せなければならない「解散報告」の場として、まさに『アメトーーク!』は相応しかったと言える。芸人にも人生があり、そのなかで難しい決断をしなければならないこともある。そんな現場の空気感のようなものを、私たちは今回の配信で垣間見ることができた。

もちろん、32年ものあいだともに歩んできた相方とのコンビを解散しなければならないのは互いに辛いことだろうし、応援してきたファンにとっても同様だろう。だがそれだけの年月のあいだには、なにかのきっかけで関係性が変わることもある。そこでその関係性をどうするかは、当事者次第だ。関係性が続いていくならばそれに越したことはないだろうが、解消すること自体が間違っているわけではない。

そして繰り返しになるが、いまの時代、私たち視聴者はバラエティ番組のなかでそんな芸人の姿を見届けることができる。

だからこそ、コンビのなかではサポート役に徹していたように見えた蛍原徹が、解散に関しては自ら先に決断していたという事実を私たちは知ることができたし、語弊があるかもしれないが、その経緯について言葉を選びながら誠実に語る彼の姿は感動的でもあった。そこには、普段の「ホトちゃん」には見られなかった素の表情があった。

一方宮迫博之が、東野幸治らから「また演じている」と厳しくツッコまれるくらい何度か感極まって言葉を詰まらせながらも、機会をとらえては笑いに持っていこうとする姿は、いつもの彼らしいものだった。そこには、芸人として、真情を吐露することをあえて抑えようとしている様子がうかがえたと言ったら穿ち過ぎだろうか。

芸人にとっては善か悪か?

こうして生き様を見せなければならない「リアリティショー」の時代が、芸人にとって好ましいものであるかどうかはわからない。

SNSの普及によって、視聴者の声も直接届くようになった。今回の配信でも、数多くのコメントが書き込まれていた。そのなかには、ポジティブなものだけでなくネガティブなものもあった。芸人は、いままでになく尊敬されるようになった一方で、そうした不特定多数の声にもさらされなければならない。そしてその結果、世間によって消費されてしまうリスクとも、闘わなければならない。

ただいずれにしても、「解散」という決断をした雨上がり決死隊の2人は、それぞれの道を行くことになった。彼らにとって、これからの未来がいっそう充実したものになることを願うばかりだ。

太田 省一 社会学者、文筆家

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おおた しょういち / Shoichi Ota

東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。現在は社会学およびメディア論の視点からテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、音楽番組、ドラマなどについて執筆活動を続ける。

著書に『刑事ドラマ名作講義』(星海社新書)、『「笑っていいとも!」とその時代』(集英社新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『水谷豊論』『平成テレビジョン・スタディーズ』(いずれも青土社)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)など。

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