浅野、白石…なぜ鶴見線は「人名」の駅が多いのか 路線由来の財界人の名、人間関係も垣間見える

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大川駅は、大川平三郎(1860~1936年)にちなむ。彼は渋沢栄一の前妻の甥で、大学南校などで学んだ後、アメリカで製紙技術を習得する。大川が20代半ばの頃、総一郎の大恩人である渋沢の代理として深川のセメント工場の経営に参画、後に富士製紙社長に就任し、「日本の製紙王」と呼ばれるようになる。白石も大川も、鶴見臨港鉄道沿線の埋立事業を行った鶴見埋築の取締役を務めている。

大川駅の駅名は「日本の製紙王」と呼ばれた大川平三郎に由来する。昭和40年代の様子=1973年(筆者撮影)

このほか浜川崎―昭和間に、前述の若尾駅(1931年開業、1943年廃止)があった。これも総一郎ゆかりの人名駅である。

同駅西側一帯は、甲州財閥として名高い若尾幾造(二代)(1858~1928年)が明治時代に干拓を手掛け、若尾新田(現・川崎区南渡田町)と呼ばれていた。幾造(二代)は日本鋼管創立時の発起人の一人で、日本鋼管の最初の工場は若尾新田に建造されている。若尾の親族の中での実力者、若尾璋八の長女と総一郎の三男浅野八郎は縁組をしている。

「扇町」も総一郎ゆかりの駅名

鶴見線ではほかに、扇町駅の名も総一郎に関係している。

扇町駅の名も浅野総一郎に関係している(編集部撮影)

総一郎が若い頃、取引先で印鑑を忘れた際、閉じた扇子の先端(小口)に朱肉を付けて押捺し急場をしのいだ。以後しばらくは、扇子の先端を印鑑としたという。そのことから、浅野家の家紋は、開き始めた扇子の先端を上から見た形(Nを左右逆版にした形)となった。開き始めの扇子は、これからさらに開く(成長する)ことを示唆している。

なお、鶴見小野駅も総一郎とは無関係ながら人名による。小野氏が明治初期頃、現在の駅一帯を埋め立てて新田開発を行い、小野新田と名付けた。駅名はその地名から命名されている。

鶴見臨港鉄道は、戦時色の強まった1943年に買収国有化された。重工業地帯に伸びる路線のため軍事的に重要で、国家管理が必要とみなされたためである。現在の鶴見線は、貨物列車の本数こそ激減(走行区間も縮小)したが、沿線が工場地帯なのは開業の頃と変わらない。日中の沿線は閑散としているが、こうした歴史に思いを馳せると、印象がまた違ったものになるだろう。

鶴見線への入口となる当時の国有鉄道鶴見駅または浜川崎駅を、総一郎は大恩人の名をいただいて、渋沢駅としたかったのではないか、とも夢想してしまう。

内田 宗治 フリーライター、地形散歩ライター

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うちだ むねはる / Muneharu Uchida

主な著書に、『地形と歴史で読み解く 鉄道と街道の深い関係 東京周辺』(実業之日本社)、『外国人が見た日本 「誤解」と「再発見」の観光150年史』(中公新書)、『関東大震災と鉄道』(新潮社)など多数。外国人の日本旅行、地震・津波・洪水と鉄道防災のジャンルでも活動中。

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