無人駅「浜川崎」昔は東京モノレール延伸構想も 鶴見線・南武支線が発着、工業地帯の発展支える

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1960年に同社が発行したパンフレットを見ると、羽田空港からそのまま延伸して横浜駅に接続する横浜線、横浜駅から横須賀駅を経由して江の島・茅ケ崎・小田原付近を通過して芦ノ湖畔の元箱根へと至る箱根線、そして天王洲アイル付近から分岐して東京湾岸を東進。当時はまだ東京ディズニーランドは開園していないが、その付近を横切って千葉駅、そしてJFEスチール東日本製鉄所付近を終点とする千葉線などが計画されていた。

計画された路線の総延長距離は、約190kmにもおよぶ。現在の東京モノレールは総延長が約17.8kmだから、10倍以上の路線網を築くことが計画されていた。

そんな壮大なモノレール構想は、1968年に申請を取り下げたことで幕を下ろす。今から振り返れば無謀とも思える構想だが、残された資料を見ると、横浜線の実現にはかなり熱を入れていたことが窺える。浜松町駅―横浜駅間は予定路線図だけではなく列車運行図表が作成され、早朝・夜間は10分間隔、昼は5分間隔で運転することを想定していた。

列車運行図表には途中駅として7駅が書き込まれており、そのうち東神奈川駅・子安駅・浜川崎駅の3駅は京浜東北線や京浜急行電鉄などの既存駅と乗り換えが想定されていた。

そうした計画の中で、浜川崎駅の存在は際立っている。

川崎の発展を牽引した地

現在の浜川崎駅は南武線(浜川崎支線)と鶴見線の2路線が乗り入れている。南武線は川崎駅と立川駅を結ぶ本線と、尻手駅から分岐する約4.1kmの浜川崎支線からなり、浜川崎駅に乗り入れているのはこの支線だ。

鶴見線の浜川崎駅。南武線との乗り換えは、いったん改札を出なければならない(筆者撮影)

両路線の駅はそれぞれ独立して開設されており、乗り換えにはいったん改札を出る構造になっている。浜川崎駅がそんな構造になっている理由は、南武線と鶴見線がもともと別の鉄道会社が運行し、互いがライバル関係にあったからだ。

高度経済成長期までの浜川崎駅は、鉄道会社にとって多くの需要が見込める魅力的なエリアだった。

浜川崎駅一帯は明治末から埋立造成が始められたエリアで、官営鉄道(国鉄)が貨物駅を開設したのが1918年。鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道が駅を開設したのは1926年だった。これらの鉄道が、後に京浜工業地帯の核となる工場群へ物資・工員を輸送し、日本全体の工業発展に寄与した。

鶴見臨港鉄道のオーナーだった浅野総一郎は数々の事業を起こして財閥を築いたが、その中心は工業だった。しかし、浅野は川崎で起業したわけではない。当初は生まれ故郷の富山で、そして明治に入ってからは東京で事業を起こした。

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