無人駅「浜川崎」昔は東京モノレール延伸構想も 鶴見線・南武支線が発着、工業地帯の発展支える

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青梅はセメントの原料となる石灰石の採掘が盛んで、青梅鉄道も石灰石を輸送するという鉄道貨物事業のかたわらで採掘も手がけていた。浅野はそうした点に着目していたわけだが、もちろん鉄道貨物が工業振興に欠かせないことも早くから見抜いていた。

そのため、浅野は経営に関与するだけではなく、後にシナジー効果が高いと判断した南武鉄道・青梅鉄道を買収して傘下に収める。さらに、石灰石の採掘・搬送を目的に設立機運が高まっていた五日市鉄道(現・JR五日市線)の経営にも関与していく。浅野が経営に関与した鉄道会社は、ほかにも石灰石輸送で活況を呈した三重県の三岐鉄道がある。

川崎臨海部に集まった工場は、第一次世界大戦による好景気によって業績を上げていく。当然ながら、それは川崎の経済を刺激した。大戦後の反動で一時的に景気は悪化したものの、関東大震災で東京・横浜の工場が被災すると、川崎の工場がそれを補った。東京・横浜で被災した工場が新たに川崎へと移転することも多く、川崎臨海部全体の伸長につながった。

さらに関東大震災の教訓から復興にはコンクリート造の建築物が求められることになり、セメント事業を手がけていた浅野自身の勢いを増すことにつながった。

16年で人口が6倍超に

川崎臨海部の勢いは、川崎市全体の人口増加を引き起こす要因にもなる。1924年には川崎町・大師河原町・御幸村の3町村が合併し、人口5万人を擁する川崎市が誕生。市制施行から16年間で人口は6倍以上の31万人超まで増加する。それが原因で川崎市は1930年代に深刻な住宅難に陥った。川崎市としては嬉しい悲鳴といったところだろうか。

川崎臨海部の活況は、貨物輸送に加えて鉄道旅客輸送の活発化も招いた。

京浜電鉄は1919年に子会社の海岸電気軌道を設立し、総持寺駅(現在は廃止)から日本鋼管や浅野セメントなどの工場地帯、浜川崎駅近くを通って大師線の大師駅までを結ぶ路線を1925年に全通させた。海岸電気軌道は1930年に鶴見臨港鉄道に買収されて同社の軌道線となった。

だが、それまで貨物輸送のみだった鶴見臨港鉄道も同年から旅客輸送を開始。軌道線の利用者は減り、同線は1937年に廃止された。

第二次世界大戦後の川崎臨海部は多くが軍需工場となり、既存路線だけでは通勤需要をさばけないとの判断から1944年に工員輸送を担う川崎市電が運行を開始。川崎市電は川崎駅前から浜川崎駅へと向かう路面電車だったが、実は川崎市は市電開業前年の1943年に大師線を買収して環状線を運行する計画を立てていた。

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