そもそも五輪開催に向けて少なくとも1兆6400億円もの巨額の税金を湯水のごとく使っているにもかかわらず、国民が切実に必要としているコロナ禍における経済的支援には後ろ向きで、医療キャパシティの問題も根本的に解消されないままだ。そのために3度目の緊急事態宣言を発出せざるをえなくなり、多大な経済的損失、深刻な人的損失を招いてしまっている。
ワクチン接種のペースは、先進国で最も遅く、「このままだと高齢者だけでも2年かかるのではないか」と呆れられている。これらの恐ろしいほどの無策は、五輪ありきで暴走する日本という国家の「異常性」と一体になっている。
「あの素晴らしい日本を、もう一度」の打ち上げ花火
今回の五輪招致に込められた期待の深層にあるのは、いわば「あの素晴らしい日本を、もう一度」という願望を充足するための打ち上げ花火だ。それは「国富を惜しげもなくなげうつ」ことによって1964年の華やかな戦後日本の復活劇を〝再上演〟し、その霊妙な働きに基づく活力と繁栄を呼び込もうとする「国家的蕩尽(とうじん)」といえる行為なのである。これがアメリカのワシントン・ポスト(電子版)が5月5日のコラムで、「ぼったくり男爵」と呼んだバッハ会長をはじめとする国際オリンピック委員会(IOC)の目論見と一致したというわけだ。
一連の五輪開催になぞらえられる行為として思い浮かぶのは、神々や先祖の霊が飛行機や船などを使って〈積み荷=富〉をもたらしてくれると考え、そのための飛行場をほうふつとさせる施設などを一生懸命整備したとされるカーゴ・カルト(積荷信仰)だ。
19世紀のメラネシアで発生した現世利益的な信仰の根底にある思考は、先進国に普遍的な「右肩上がりの時代」の記憶を文化的に模倣する行為とあまりにも似ている。日本でもこのような呪術的思考が国家的なプロジェクトにまで波及し、もはや人心を荒廃させる段階にまで達しているということなのだろう。
これは筆者の専売特許ではない。同様の批判は、ソーシャルメディア上で東京五輪の決定前後から散見されている。ただし、かつてとは大きな違いがある。巨大な利権だ。五輪開催そのものがすでに関係者に利益をもたらすのである。
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