日中戦争後に日本陸軍将兵が受けた意外な対応 蒋介石は報復しないと表明、武装保持を命じた
これにまつわるひとつのエピソードがある。終戦後まもない8月21日、支那派遣軍総参謀副長を務めていた今井武夫少将は、中国との停戦協定の予備会談に臨むため、芷江に向かった(芷江会談)。
このとき会場には、陸軍士官学校の入校試験で今井の面接を受けた中国側将校がおり、会談に際し、陸士時代の教官でもある今井に失礼がないよう、上下の立場のない丸テーブルで話し合いを開く準備をしたという(今井貞夫「『幻の日中和平工作』を執筆して」、『中国21』Vol.31所収)。
このように、現地日中両軍トップ同士の親しい関係が、中国本土の日本軍が平和裡に終戦を迎えられた要因のひとつであったといえよう。
岡村総司令官が5項目を中国側に申し入れ
さまざまな思いの中、終戦という事実を受け入れた第3師団将兵は、その後どのようにして復員したか。
9月1日、岡村総司令官は、中国側に5項目からなる「停戦協定に関する事前稟議事項」を申し入れた(『昭和20年の支那派遣軍<2>』)。その5項目とは、およそ次のとおりである。
②遅くとも本年中に中国からの撤兵を完了したい。その場合の輸送船舶の常時使用にも配慮してほしい
③補給品は現在日本軍が保有しているものは、そのまま使い、不足した場合は中国側から補給を受けたい
④最後まで日本軍の統率組織を活用し、中国側の要求は、すべて日本側の責任で処理する
⑤日本居留民は日本軍が同行保護し、優先的に帰国させたい
一方で、岡村は、派遣軍各部隊に対し、復員のため、塘沽、青島、連雲(連雲港)、上海、南京、九江、漢口、汕頭、広州、九龍、雷州などに集まり、人員整理や検疫など復員に向けた準備を整えるよう命じた。
すでに、第3師団は隷下各部隊に軍旗と重要書類の処分をしたうえで、鎮江へ集結するよう命じていた。鎮江は滬寧線(上海―南京)沿線で長江に面していて、復員をするには都合のよい場所であった。
また、この地は、かつて第3師団が第2次上海事変後に駐留したことのある馴染み深いところでもある。9月6日、すべての部隊が鎮江に到着すると、国民革命軍の監視下に置かれ、復員まで同地の集中営(強制収容所)で抑留されることとなる。
彼らは集中営でどのように過ごしたか。騎兵第3聯隊の場合を例にまとめる(『騎兵第3聯隊史』)。
彼らが収容されたのは、鎮江西郊外の丘の上に建つ、かつて華中蚕糸公司が使用していた建物であった。2階建てのレンガ造りで、1階には聯隊本部、聯隊長室、霊安室(英霊奉安室)、医務室、入浴場、2階には第2中隊が入り、敷地内の平屋建ては第1中隊や機関銃小隊が使い、そのほかにも、炊事場、糧秣倉庫、製パン工場、理髪室などが設けられた。建物の北側にクリークが流れており、その水を飲用水とした。
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