日中戦争後に日本陸軍将兵が受けた意外な対応 蒋介石は報復しないと表明、武装保持を命じた

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第3師団通信隊の小木曽鋼蔵は、8月15日ごろ、大家店という集落に着いた。夜に仮眠を取っていると、小木曽は日本が降伏したという声を耳にし、目を覚ます。

彼ははじめ、それがデマではないかと疑ったが、「私たちは、日本が負けたことをどうして知ったか定かではない。昨夜の機関車が指令伝達のため走ったとか、大家店の警備兵が敵の飛行機が撒いたビラを拾ったとか、いずれも日本が負けたという結論ばかりだった。途端に今まで張り詰めていた気持ちが一ペンに萎み、一瞬、皆の声が跡絶える。しばらくして、『これで内地へ帰れるぞ』と、私が口を切ると、みんなが思い思いのことを話しだす。ある者は、もう内地に帰ったような口振りで話し一同を笑わす。が一方では、中国軍がそんなに簡単に帰すだろうか、と心配する者もいた」(「終戦前後」、『第3師団通信隊誌』所収)。

反転作戦の途中であった小木曽らにとっても、日本降伏の知らせは寝耳に水のことであったろう。しかし、終戦が事実であることを知ると、彼の周りに一気に安堵感が広がった。その一方で、兵の中には中国軍に不信感を持ち、すぐに帰国できるか疑問を抱く者もいた。

中国軍が日本軍将兵を捕らえなかった理由

ところで、第3師団将兵が終戦を知った頃、ソ満国境では、満州に侵攻してきたソ連軍が日本軍を武装解除し、帰国させると騙して、彼らを鉄道でシベリアへ送った(シベリア抑留)。これと同じく、中国本土でも戦いに勝利した中国軍が日本軍将兵を捕らえて武装解除し、身柄を拘束するなどの措置を採ることも可能であったはずである。

なぜ、中国本土ではそのようなことが起きていなかったのか。

8月15日、蒋介石は重慶で「全国軍民および世界人士に告げる書」を発表した(『蒋介石全伝』)。この中で、彼は抗戦勝利を宣言するとともに、次のように述べて、日本側に報復しないことを表明したのだ。

「私たちは特に報復をしようと考えてはおらず、また、敵国の無辜の人々に屈辱を加えようともしない。私たちはただ彼らが日本軍国主義の愚かな行為と抑圧を受けていることに同情を表し、彼ら自身に誤りと罪を打破させるのである。もし、私たちが暴行でもって敵のこれまでの暴行に応えるのであれば、敵はこれまでの誤りと優越感で屈辱的に対応するであろう。互いに恨みを恨みで報い合うのは、永遠に止めなければならない」

そして蒋介石は岡村寧次総司令官に対し、今後日本軍は連合国中国戦区陸軍総司令の何応欽の指示に従い、しばらくの間、武装と装備を保持し、所在地の秩序と交通を維持するよう命じたのである。なぜ蒋介石は日本軍をすぐに武装解除しなかったのか。それは日本軍をしばらく留めておくことで、すでに強大な勢力となっていた八路軍(共産党軍)の動きを抑えるためだった。

ちなみに、蒋介石と何応欽を含む蒋の側近の幹部たちは、その多くが若い頃日本に留学し、陸軍士官学校や各地の聯隊で訓練を受けた経験を持っていた。これが縁で、彼らは敵として戦っていた岡村総司令官をはじめとする日本陸軍の将校らと実は親しかったのである。

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