日中戦争後に日本陸軍将兵が受けた意外な対応 蒋介石は報復しないと表明、武装保持を命じた

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まず彼らが着手したのが、食料の確保である。鎮江近くの長江沿いにあった兵站倉庫に食料があり、そこからおよそ2年分の食料を手にすることができた。このほかに、集中営周辺に自生していた野菜を収穫したり、食用の豚を飼育したりして、栄養の不足を補ったのである。

衛生管理は、伝染病の発生に特に注意し、飲用水が汚染されないよう、クリークの管理を徹底した。しかし、それでも聯隊内でアメーバ赤痢のような症状を訴える患者が発生してしまった。戦争が終わってから日が浅く、食料が充分にあったとしても、彼らにはまだ病に耐えるだけの栄養は行き届いていなかったのだ。

10月になると、聯隊将兵は全員、中国軍によって武装解除されるとともに、道路補修の労役に動員された。1回の作業は、期間が約1週間から長くて約1カ月、将校か下士官の指揮のもと、およそ150人からなる作業隊を組織していく。

労役の合間には、将兵らが復員後、民主化された日本に適応できるよう、聯隊本部で民主主義教育が施された。この教育が聯隊本部の自発的なものであったのか、連合国の指導によるものであったのかは不明である。

また、各部隊事務室では、復員に伴う書類の作成が行われた。このとき、すでにあった書類に記されていた「支那」という文字が「中華民国」に書き改められる。戦前より、日本人は「支那」ということばを差別的に扱って中国を侮蔑していた。戦争が終わり、日本が戦前の軍国主義から戦後の民主主義の社会へと生まれ変わる中で、対立の温床となったことばによる差別や偏見は捨て去る必要があったのである。

気持ちを奮い立たせるために開かれた演芸会と運動会

いつ復員できるかわからない中で、集中営での抑留生活で沈滞した将兵の気持ちを奮い立たせるために開かれた行事が、演芸会と運動会であった。

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演芸会は各中隊総出で歌謡曲漫才やコント、時代劇などを披露した。運動会では、中隊同士の対抗戦で、俵担ぎ競争、走り高跳び、走り幅跳び、300メートルリレー、角力(相撲)などが催される。将兵らは、本番に向けて余暇の時間に練習を重ねた。このときが彼らにとって、抑留生活の虚しさを忘れさせてくれる瞬間でもあった。

抑留生活開始からおよそ5カ月たった1946年2月9日、騎兵第3聯隊は、復員のため、鎮江集中営から鉄道で上海へ移動する。すでに上海は、復員船を待つ多くの日本兵でごった返していた。結局、騎兵第3聯隊は、そこから約1カ月間、上海日華紡績宿舎で待機し、3月5日、呉淞港から復員船に乗り、上海を後にする。

第3師団のそのほかの部隊も続々と復員し、5月23日、辰巳栄一師団長以下575人が博多港に到着したことをもって、上海呉淞上陸から始まった9年9カ月に及ぶ第3師団の日中戦争はここに幕を閉じた。

広中 一成 近現代史研究者

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ひろなか いっせい / ISSEI HIRONAKA

1978年愛知県生まれ。2012年愛知大学大学院中国研究科博士後期課程修了。博士(中国研究)。現在は愛知大学などで非常勤講師。専門は中国近現代史、日中戦争史。著書に『後期日中戦争 太平洋戦争下の中国戦線』(角川新書)、『通州事件 日中戦争泥沼化への道』(星海社新書)、『冀東政権と日中関係』(汲古書院)など

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