「生きる歓び」を取り戻す「資本論」の使用法 矛盾していても手放したくない「身体感覚」

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あるいは、そこからポジティブに希望を語る人もいるだろう。この未曾有の危機を回避するためには、資本主義を打倒しなければならない。そのためにはこういう階級闘争が必要だと。いきなりカタストロフを突きつけられてオロオロしているうちに、気づけば自分の頭の中に、ああしなければいけない、こうしなければいけないという意識が植えこまれている。救済のための革命プログラムが出来上がっているのだ。アーメン。

そして、いつしかそれに疑いを持たなくなっている。みんながそうしなければ人類が死滅してしまう。どんなにつらい道のりでも、自分はそれに従います、他人も従わせなければならない。ああしたら、こうなる、これしかない。因果関係でがんじがらめだ。人間の思考が1つの世界観に閉じこめられていく。

おまえの身体に聴け

もともと、これだけやったからこれだけの対価をもらう。そういう商品化の思考に抗おうとしていたはずなのに、そこから抜け出そうとすればするほど、よりよい見返りをもとめて動こうとしてしまう。金儲けをしているわけでもないのに、自分の思考が商品化させられていくのを感じる。魂のコモディティー化、再びだ。資本主義を離脱するためには、そういう内面の商品化からも脱却しなければならない。

だが頭で考えれば考えるほど、泥沼に陥っていく。そこで語られる内容がどんなにラジカルなものであったとしても、どんなにもっともらしく正しいものであったとしても、それが他人の思考を奴隷化してしまったのでは意味がない。

話を戻そう。白井の文章にはそれがない。自分の世界観を押し付けて、他人を縛りつけようとする気配がみられない。皆無だ。ちゃんと言っておくと、本書は資本主義のどこが問題なのか、このままいったらどうなるのか、その原因と結果を論じているのだ。普通だったら、われわれは「何をなすべきか」という処方箋を提示したくなってしまうだろう。そういう欲にとらわれてもいいはずだ。

だが白井はそうならない。『資本論』を使って、いまの世の中を分析しながらも決してカタストロフをあおらない。それでいてこうすれば救済されるという希望も語らない。その理論から「何をなすべきか」を抽出しようとしないのだ。

白井聡の文章を読む。この社会の仕組みがわかる。白井が描く物語の中で、物事の善しあしがわかってくる。きもちいい。

だが、そのきもちよさが頂点に達したとき、とつぜん白井は読者を突き放す。白井の思考から断絶させられる。「何をなすべきか」。その問いが立ってしまう前に、自らの世界観を自らの手で破り捨てるのだ。われわれが問うべきことはただ1つ。「どうしたらいいか」。白井はこう言い放つ。おまえの身体に聴け。おいしいものが食べたい。

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