「生きる歓び」を取り戻す「資本論」の使用法 矛盾していても手放したくない「身体感覚」
ちなみに、白井は高給取りになって、高級レストランに行け言っているのではない。逆に貧乏人どもは草でも食っとれと言っているのでもない。
この世界のどこが問題なのか、それを把握するのは大事なことだけど、もっと大事なのは「何をなすべきか」という正しいプログラムを立ち上げないということだ。仮に立ち上がってしまったとしても、それが自分の身体にしっくりこないのであれば、いつだって破棄していいということだ。正しさにだまされるな。革命のプログラムなど放り投げてしまえ。『資本論』を投げつけろ。それが本を武器にするということだ。
身体をなめるな
どうしたらいいか。おまえがやれ。プログラムは存在しない。評価も成果も何にもない。自分の生きるよろこびは自分でかみしめる。自己の偉大さを自分自身で感じとる。幸せはなるものじゃなく、感じるものだ。もちろんそのよろこびはふとした瞬間に変わっていくものだろう。うまいものなんて、たまたま出会ったものや人によって変化していくものなのだから。
さっきコーラの話をしたけれど、元来、わたしは大のビール好きだ。それがあそこまでコーラに夢中になってしまったのは、インドの活動家と場を共有して、身体が共鳴したからにほかならない。
だが、そんな移ろいやすいものでありながらも、生のよろこびは何ものにも代えられない、揺るがない。他人に強制されて生まれるものではないし、自分で意識して得られるものでもない。いくら頭で操作しようとしても、身体はちっともいうことをきかないのだ。制御できない、交換できない。そんなかけがえのないよろこびをさらに充実させ、拡げていくにはどうしたらいいか。身体の思考を拡充せよ。きっとそれを続けていくことが、結果的に『資本論』を実践することになるのだと思う。
まとめよう。わたしはアナキスト、大杉栄を研究しているのだが、彼は自らすすんで賃金奴隷になろうとしてしまうことを「奴隷根性」と呼んでいた。「政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消し去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業を完成しなければならぬ」(大杉栄『奴隷根性論』)。
白井がやろうとしているのも同じことだ。人間が真に自由であるためにはどうしたらいいか。奴隷根性を駆逐せよ。自分が安く売られるのか、それとも高く売られるのか、そんなことを考えて生きるのはもうやめにしよう。あなたの魂がコモディティー化されているというのならば、その魂まるごと燃やしてしまえ。社会主義神髄だ。『資本論』としてのアナキズム。矛盾を抱いて跳べ。身体をなめるな。
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