杜氏のいない「獺祭」、非常識経営の秘密 データ分析による集団体制で日本酒を造る
ただし、酒造りは最後の最後まで、すべてを見通せるわけではない。今の技術でできることはすべて分析し、今日までの数値はわかったとしても、明日どうなるかはわかりません。それが限界です。自分たちにはそれがわかっていない、ということをわかっていないと困る。データを使って最後は人が判断をしないといけません。判断しやすくするためにデータは必要ですが。
欧米と日本、酒造りに対する違い
――どれだけデータにしても、最後は「人」が判断しないとわからない。
たとえば昔、発酵中の醪(もろみ)から取り出した発酵ガスを冷やして液体にすると、吟醸酒の香りと同じ成分が採れると言われました。数値にすると確かに同じかもしれませんが、われわれがそれを見るとやはりまったく違うものでした。機械的に言うと、1+1=2、という発想になるかもしれませんが、発酵の現場ではこれは通用しないんですよね。
酒造りは、タンクの中で糖化(米を溶かしてブドウ糖にする)と発酵(ブドウ糖に酵母がついてアルコールになる)が一緒に走っています。だから非常に難しいし、明日がどうなるかなんてわからない。
欧米の文明はどうしたかというと、たとえばビールでは糖化と発酵を分けて、数値化できる=明日の判断ができるものにした。じゃあワインはどうかというと、最初からブラックボックス化して、どこまでも「ロマンの世界」にもっていって付加価値をどーんとつけた。
そう考えると、酒というのは日本的な感覚でできあがっているな、と思います。欧米の文明は数値化をできるまで作り方を変えるか、それともそれはあきらめてふたをしてロマンの世界にもっていった。日本文化は、杜氏という専門家の文化を創ることで、その難しさと向き合って行った。優秀な杜氏は、決してすべてが経験や勘ではなくて、頭の中に数値があってそれで判断ができていたのだと思います。繰り返しになりますが、獺祭の酒造りは、その優秀な杜氏がやっていたことを、集団でやろうとしているのです。
100人いたら90人は「データでわかること」を基に、1+1=2と素直に理解して実践してくれればいいのです。そのうえで残り10人ほどのリーダーになる人が、「数字ではわからないことがある」ということをきちんと理解して指導や判断をしないといけない。
先ほどの話のとおり、酒造りは今日までのことがどれだけデータでわかっても、明日どうなるかを最後の最後まで見通すことはできません。それがわかっていないと納得のできる酒造りを続けられない。判断をできるリーダーがひとりの会社は弱いし、10人いればこれは強いですよね。獺祭では、酒造りの行程をなるべくデータで分析することで、そういう酒造りを目指しています。
――「経営者」の立場では、データをどのように活かしていますか。
経営者としては、会計的な数値などデータを見て判断することはもちろん大事です。ただし、企業がある程度伸びて行くためには、危ない橋を渡らないといけない。健全企業で、投資も安全な水準、人件費も原材料費も安全な水準、であったら、いずれ安楽死すると思います。どこかでバランスを崩したところがないと無理だと思う。そのときは「わからないけどやるしかない」し、それ以上に経営者としての「やりたい」という意思や欲望ようなものが強くなければ、勤まらないのではないでしょうか。