三陸鉄道「特別列車」30人の乗客だけが聞いた話 3月11日の記憶を社員が語り継ぐ4時間半の旅
14時46分、宮古駅に近い閉伊川橋梁で列車が止まり、警笛を合図に乗客、乗務員全員が海に向かって1分間の黙祷を行った。身近に亡くなった人がいたのだろうか、涙ぐむ人もいた。
宮古から説明に立ったのは橋上和司さん。震災当時は久慈駅長で現在は旅客営業部長と統括駅長を兼務する。朝ドラ「あまちゃん」の放送に際しては「上司から“お前はあまちゃん担当をやれ“と言われ、2年間業務を離れていました」と笑う。
震災当日は休みで「家でゴロゴロしていた」。橋上さんは防災担当者だったので、急いで久慈駅に向かった。駅にいた15人ほどの乗客に避難するように叫んだが、「普段着だったので駅員と信じてもらえず、相手にしてもらえませんでした」。なんとか説得して避難してもらい、自分も高台に避難した。
「でもせっかく避難したのに、これから津波が来ると聞いて、町に降りて行った人が何人もいました。保育園に預けている子供が心配だ、自宅にいる年寄りが心配だと言った理由です」
こうして復興支援列車は走った
三鉄が3月16日に災害復興支援列車を運行したときのエピソードも話してくれた。当初は幹部社員全員が賛成したわけではなかった。一部区間を運行するよりも住民と一緒に町の瓦礫除去を手伝うべきではないか。鉄道は動いていないと思い込んで線路上を歩いている人もいる。二次災害を出したら大変だ。
災害復興支援列車の第1便に乗客は誰もいなかった。誰も列車が走っているとは思っていなかったからだ。2日目、3日目と乗客が少しずつ増えてきて、3月20日前後には大勢の客が乗り込んできた。「みんな長靴を履いて、スコップを持って。車内は泥だらけ」。運行の合間に汚れた車内を清掃していたら、「汚して申し訳ない」と手伝ってくれる人が何人も出てきた。「列車を動かしてよかったと思いました」
2019年に入社し宮古駅で勤務する千代川らんさんは自らの経験を話してくれた。山田町の出身で震災当時は小学6年生。まだ下校前で大きな揺れに机の下に隠れたが、「校舎が崩れるかもしれない」と震えたという。学校が避難所に指定されていたので、揺れが収まった後は外で待機した。「すぐに家に帰れると思っていました」。当時は津波がどういうものかもよくわかっていなかった。
町の方から煙が上がるのが見えた。「火事だと思ったが、津波で建物が壊れた衝撃で上がった土煙だったことが後でわかりました」。夜になるとあちこちで火の手が上がり、爆発音が何度も聞こえた。避難してきた家族と車中泊したが、「一晩中眠れませんでした」。
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