三陸鉄道「特別列車」30人の乗客だけが聞いた話 3月11日の記憶を社員が語り継ぐ4時間半の旅

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

1週間ほどたってようやく町に出ることができた。ところがあまりにも変わり果てた町の姿に自分がどこを歩いているかがわからない。「これからどうなっちゃうんだろう」と不安に感じた当時の心境は今でも忘れられない。「そこからが長い長い震災との戦いの始まりでした」。避難所生活を3カ月ほど続けて仮設住宅で8年を過ごし、現在は災害公営住宅で暮らす。

小学校の卒業式の写真を見せて説明する千代川さん(左)。この写真を見つめると「これからも頑張ろうね」という気持ちになると話す(記者撮影)

千代川さんが大切にしているという小学校の卒業式の写真を見せてくれた。子どもたちはみんな笑顔で肩を組んでいる。毎年3月11日になるとこの写真を取り出してじっと見つめる。「これからも頑張ろうねという気持ちになるのです」。

田野畑駅から終着の久慈駅まで説明してくれたのは畑田健司さん。十府ヶ浦海岸駅の近くで車窓を指差した。「このあたりには保育園がありました」と、畑田さんが話す。野田村保育所は海岸からわずか500mしか離れておらず、建物が流されながら、園児約90人と職員が全員無事だった。

「本震の前に何度も大きな前震が起きて、胸騒ぎを感じた職員さんが避難訓練をやるべきだと考えた。訓練をやるなら地震が起きてほしくない時間帯にやるべきだ。それはいつか。園児のお昼寝の時間帯です」。震災当日の午後に避難訓練を行う予定だったという偶然が、スムーズな避難につながった。地元では「野田村の奇跡」と呼ばれているという。

「避難場所は人でごったがえしています。せっかく避難場所に着いたのに、子供が見つからないと言って町に戻ってしまって、津波にのまれたお父さんがいました。実は家族はみな避難場所にいたのです。避難場所のどの場所で家族を待つか、どの道を通って避難所に行くということをきちんと話し合っておいてください」と畑田さんは話す。

復興の象徴、そして震災の語り部として

盛から久慈までの全線にわたって社員が震災について説明する列車は今回が初めてだが、盛―釜石間、田野畑―久慈間といった一部区間では、これまで「震災学習列車」を随時運行してきた。基本的には団体専用列車で、内容は「大人向け、子供向けのほか、企業の防災担当者に向けて専門的に説明することもある」(橋上さん)が、年に何回か個人向けの企画列車を走らせている。

久慈駅に到着した特別列車。三陸鉄道は震災の語り部としての役割も担う(記者撮影)

「復興のシンボル」として日本中から応援され、三陸鉄道は復活した。沿線人口が減少している中、経営としては厳しい状況が続く。しかし、「たとえ赤字でも残しておいてよかったと思ってもらえる鉄道にしたい」(畑田さん)。沿線の足、観光列車、そして震災の語り部としての役割が三陸鉄道にはある。

冨手さんは今年定年を迎える。ほかのベテラン社員たちもいずれは定年で職場を去ることになる。今後は千代川さんのような若い世代が、震災の記憶を伝えていく。

大坂 直樹 東洋経済 記者

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

おおさか なおき / Naoki Osaka

1963年函館生まれ埼玉育ち。早稲田大学政治経済学部政治学科卒。生命保険会社の国際部やブリュッセル駐在の後、2000年東洋経済新報社入社。週刊東洋経済副編集長、会社四季報副編集長を経て東洋経済オンライン「鉄道最前線」を立ち上げる。製造業から小売業まで幅広い取材経験を基に現在は鉄道業界の記事を積極的に執筆。JR全線完乗。日本証券アナリスト協会検定会員。国際公認投資アナリスト。東京五輪・パラにボランティア参加。プレスチームの一員として国内外の報道対応に奔走したのは貴重な経験。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
鉄道最前線の人気記事