この10年で「3つのこと」を諦めた日本の盲点 社会学者の開沼博が考える日本が変わらない訳
「中道」も「知識」も不要だし、それらが当然あるべきだという感覚が失われれば、そこにはもう「外部」への想像力が一切存在しなくなります。つまり、「事実を見る、現場を見る。それを怠り、見たいものを見て、聞きたいことを聞き、一方的に断罪・糾弾できる敵・悲劇を見つけてはそこに殺到する」ような、言葉のゲームが反復されるようになります。そこには「何かやってやったぞ感」と徒労だけが残り、社会の変化は何も起きずに時間が経過していくことになる。
デマやニセ科学に対する修正力は高まったが…
――福島県産の農産物、海産物への風評被害や、放射能に関するさまざまなデマが問題になりました。3.11を経て、日本人は「誤った情報」「非科学的な情報」に対する耐性ができたといえるでしょうか。それとも、情報の真偽を見抜くことがさらに困難になっているでしょうか。
個別には耐性もできてきたでしょう。例えば、新型コロナのワクチンについてのニセ科学・陰謀論に基づく情報、実際に感染者を増やし人命に関わりかねない情報をSNSはもちろん、マスメディアも流布する動きは相変わらずですが、自然発生的にそれをただす動きも、早い段階で出るようになってきている。
これは、3.11を見てきた人間としては「3.11の経験が、まさにワクチンのように作用して耐性をつくり、少しは生かされたな」と思うところです。ですが、大きな流れとしては、情報と私たちの関係の中で起こる問題は、より混乱していくでしょう。
もっとも、これは「日本人は」というところにとどまらず、グローバルでユニバーサルな動きと接続しています。つまり、日本だけではなく国際社会の問題として、3.11からだいぶ時間がたってから「ポスト・トゥルース」「フェイク・ニュース」が話題になり、アメリカ大統領選で明らかになったように陰謀論・ニセ科学が跋扈する状況になった。これら、全部3.11のときから、日本社会はすでに経験しはじめていたわけですから、日本は先んじてこの普遍的な問題を経験していたとも付言する必要があります。
――3.11を経て、日本は「変わらなさ」が維持される構造に変わった、ということですね。日本人の価値観や、意思決定のプロセスに何か変化は見られますか。東日本大震災、福島第一原発事故は、日本人にどのような「教訓」を与え、その教訓を日本人はどのように生かしているでしょうか。
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