1万円札が生まれる街「王子」と渋沢栄一の因縁 飛鳥山に邸宅構え「紙の街」発展の礎を築く
明治から大正にかけて東京の中心部が市街化したことに伴い、都心で操業していた工場は郊外移転を余儀なくされる。こうして山手線の外側に工場が増えていった。王子は大規模工場が進出できる余地があるうえ山手線から近いこともあり、工場進出には絶好の地だった。昭和10年代に入ると、王子区・滝野川区(現在はどちらも北区)には軍需工場が増え、王子駅の周辺はにわかに軍都の色を濃くしていった。
戦後、王子製紙は過度経済力集中排除法によって3社に分割され、王子駅に隣接していた工場と下十条工場・倉庫および専用線は十條製紙(現・日本製紙)が継承した。
その後、北区は宅地化が進み、軍都の面影は急速に薄れた。1971年には須賀線が廃止になり、1973年には北王子線の開設目的でもあった下十条の工場が閉鎖される。工場が閉鎖された後も倉庫としての機能は残されたため、北王子線ではわずかに貨物列車が運行されていた。その倉庫も2014年に取り扱いを終了。存在意義を失った北王子線は廃止された。現在、線路跡地は公園・遊歩道などに整備され、倉庫跡地にはマンションが建っている。
渋沢が愛した街で生まれる「新一万円札」
歳月を経て、王子駅の周辺から製紙業の面影は薄れつつある。それでも王子と紙のつながりを感じさせる施設・企業は残っている。
現在の王子で、渋沢の思い描いた「紙と経済」という関係を保っている象徴ともいえるのが、2014年に組織改編で滝野川工場から改称した国立印刷局の東京工場だろう。印刷局は東京・王子・小田原・静岡・彦根・岡山の6工場を操業しているが、そのうち日本銀行券を印刷しているのは東京・小田原・静岡・彦根の4工場にすぎない。東京工場は、まさに日本経済の根幹ともいえる日本銀行券を生み出す工場になっている。
また、飛鳥山には紙の博物館、王子周辺には印刷・出版を生業とする町工場も点在している。
渋沢は1931年に飛鳥山の邸宅で没した。その邸宅のすぐ近くにある国立印刷局東京工場で、2024年に渋沢の肖像が描かれた一万円札が産声をあげる。資本主義の父・渋沢は王子に紙の街という使命を託し、その成長を見守り続けることになる。
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