1万円札が生まれる街「王子」と渋沢栄一の因縁 飛鳥山に邸宅構え「紙の街」発展の礎を築く

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1879年、渋沢は飛鳥山に別邸を建設した。当時はまだ王子駅は開設されていない。渋沢が飛鳥山の邸宅を本邸に定めるのは1901年からで、それまでは資本主義の父らしく日本橋兜町の邸宅などを本邸にしていた。

とはいえ、飛鳥山に邸宅を建設したことは渋沢の道楽でも酔狂でもなかった。渋沢は王子の別邸を曖依村荘(あいいそんそう)と命名した。王子駅が開設されると、渋沢は兜町の邸宅を事務所として使用するようになり、飛鳥山の別邸でプライベートを過ごすようになる。別邸とはいうものの飛鳥山で過ごす時間は増え、実質的に本邸になっていた。

飛鳥山公園の北区飛鳥山博物館内に開設された大河ドラマ館(筆者撮影)

飛鳥山に居を移したことで、渋沢は王子駅から上野駅まで日本鉄道の汽車に乗り、上野駅からは馬車鉄道に乗り換えて兜町の事務所まで通勤するという生活スタイルへと切り替えた。

こうした経緯を見ると、渋沢が王子・飛鳥山に惚れ込んでいたことは間違いない。飛鳥山の邸宅を本邸に定めた際、和風建築の第一人者でもあった柏木貨一郎に新しい建物の設計を依頼したところからも王子への愛着がうかがえる。では、なぜ渋沢は王子という街に着目したのだろうか。

渋沢は日本経済の第一人者になった後も、たびたび血洗島へ帰郷し、地元の諏訪神社の祭りに参加するなど、生涯にわたって故郷の人たちと交流を温めた。王子は、渋沢が本拠地にしていた兜町と故郷・深谷の中間地点にある。故郷へ帰るにも仕事に出かけるのにも便利という利点があった。そうした理由で、王子を気に入ったことは確実だろう。

「紙」に着目した渋沢

渋沢が王子に惚れ込んでいた理由は、ほかにも見いだすことができる。それが、渋沢の企業・経済活動を支えた「紙」の存在だ。

渋沢は、1867年に幕府代表としてフランス・パリの万博に派遣された徳川昭武に随行した。幕府崩壊は、遠い異国の地で迎える。幕府崩壊により、昭武は急いで帰国する。渋沢も帰国したが、明治新政府には仕えず、旧主の慶喜にしたがって静岡で生活を送った。しかし、静岡での手腕が新政府首脳の目に留まり、出仕を命じられた。

実業家として民間で汗を流したイメージの強い渋沢だが、短い期間ながら官吏も経験している。

1873年、渋沢は新政府を辞するが、その直前に第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立した。第一国立銀行は生涯にわたって渋沢の企業活動をバックアップする力強い存在になるが、それと前後して、渋沢は洋紙を製造する「抄紙会社」(現・王子ホールディングスと日本製紙の前身)を王子に設立した。あまり語られることはないが、抄紙会社は第一国立銀行とともに渋沢の後ろ盾となった事業だった。

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