1万円札が生まれる街「王子」と渋沢栄一の因縁 飛鳥山に邸宅構え「紙の街」発展の礎を築く

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昨今はデジタル技術の進展によるペーパーレス化が進んでいる。紙の存在感は小さくなり、その影響で製紙業にも存亡の機が忍び寄る。そうした時代の流れもあり、資金を工面する銀行ならともかく、抄紙会社が渋沢の経済活動をバックアップしていたと言われても実感は湧きづらい。なぜ紙がそれほど重要だったのか。

それまでの日本社会は資本主義とは無縁で、経済という概念も庶民には希薄だった。江戸時代から金融業は存在したが、庶民に身近な存在とまでは言えなかった。銀行という新たなビジネスモデルを生み出すことで、渋沢は資本主義や経済という概念を日本社会へ根づかせようとした。

資本主義や経済という概念を広めるためには、貨幣の流通が欠かせない。そして紙幣を流通させるためには、大量の紙が必要になる。つまり、製紙業を振興させることが資本主義を広める第一歩でもあった。

王子が製紙工場に適していた理由

渋沢が製紙業の振興に力を入れたのは紙幣の印刷という理由だけではなく、教育の普及やジャーナリズムの醸成といった目的もあった。

企業活動の傍ら、渋沢は商法講習所(現・一橋大学)や大倉商業学校(現・東京経済大学)をはじめとする商業教育、女子教育奨励会(現・東京女学館)や日本女子大学校(現・日本女子大学)といった女子教育、工手学校(現・工学院大学)などの技術者教育に力を入れていた。

渋沢が教育を充実させようとした背景には、経済発展の条件として個々の学力向上が必要不可欠であることをわかっていたからだ。学力の向上には、学校建設というインフラ整備も必要になるが、教科書も欠かせない。教科書は紙を原料にしているから、製紙業の振興が間接的に教育を普及させることになる。

旧渋沢庭園内に立つ渋沢栄一像(筆者撮影)

ジャーナリズムの醸成に着目したのは、パリ滞在中の衝撃的な出来事を体験したのがきっかけだった。渋沢はパリ万博の会場でフランス皇帝の演説を聞いたが、翌日の新聞にその内容が掲載されていた。会場に居合わせなくても、皇帝の演説内容を知ることができる。渋沢は情報インフラの重要性に気づいた。

さまざまな理由から、渋沢は製紙業の振興が経済発展に結びつくことを誰よりも理解していた。抄紙会社の工場を建設するべく、東京の各所を視察して適地を探した。そして、いくつかの候補地から王子に工場地を決定する。

王子が製紙工場に適していると判断された理由は、いくつかある。王子は石神井川と千川用水が流れている。製紙業に水は欠かせない。また、東京の郊外だったこともあり、広大な敷地が確保できることも大きかった。

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