そうかと思えば翌日には、違う友達とキリスト教会の日曜礼拝に参加した。
「5歳の頃、日曜礼拝のバザーで楳図かずお先生の『洗礼』(小学館)を10円で買いました。もうめちゃくちゃ怖くて、自分で持っているのも怖くて、結局友達のお母さんにあげました。
この頃から漫画やホラー映画などのサブカルチャーに目覚めました。それが、いずれ昆虫食にもつながります」
小さい頃の思い出は青山通りを中心とした狭い範囲だった。赤坂はちょくちょく通っていたが、渋谷は
「子どもだけで行ってはダメ」
と両親に言われていたから、ほとんど足を運ばなかった。
中学校になって、世田谷区の住宅街に引っ越した。友達同士で外食する機会が増えたが、食べるのはパスタやハンバーガーであり、風変わりなものを食べる機会はいったん減った。
中学校時代の成績は中の上くらいだったが、ダメ元で受けた進学高校に合格することができた。
「高校で全然勉強についていけなくなったんですよね。無理していい高校行くもんじゃないなと、思いました」
ただ卒業はできたし、大学の付属高校だったから内部受験で進学することもできた。しかしそのまま素直に進学するのも、少し癪な気がした。
「今思えば素直にエスカレーターに乗ればよかったとも思うんですが、都内の女子大学に入学しました」
中国・北京で味わったワイルドな料理
大学では中国語を専攻したため、1カ月間北京の大学に留学することになった。寝泊まりするのは大学付属の寮だった。先生からは
「屋台の食べ物は絶対に食べるな!」
とお達しが出ていた。
「もちろん初日から寮を抜け出して、屋台で食べてました」
当時は、中国は今よりも衛生的に厳しかった。トイレを見つけたいと思ったら、人に聞かなくても臭いで場所がわかった。トイレのドアも閉めないで用を足している人が多かったし、溝が敷かれているだけのワイルドな便器も多かった。
「郷に入っては郷に従え、で普通に使ってました。そこまで変な料理は食べなかったですけど、蛇料理とか魚の身をすり潰した料理とかを食べた記憶があります。まだ日本ではパクチーが流行る前だったんですが、すごいハマってしまって、パクチーのみの炒めものを作ってもらってました。中国でもそんな食べ方はしないらしく、お店の人に驚かれました。クラス全員お腹壊してましたけど、私だけは大丈夫でした(笑)」
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