「施設か路上」の2択迫られた42歳男性の絶望 生活保護申請後の宿泊場所探しは「自己責任」?

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ベニヤ板で仕切っただけの個室や、清掃や調理などの強制労働、外出の制限といった無低の劣悪さについては挙げればきりがない。ただその実態については本連載でもリポートしてきたので、ここでこれ以上詳しく触れることはしない。

タツヤさんは生活保護を申請した際、自分の体調を考えると施設は無理だと伝えた。区側は当初、施設入居が申請条件であるかのような対応だったが、関係者が同席したことで、かろうじて「保護費の範囲内で、自分で宿泊場所を探すことは構わない」という“譲歩”を引き出すことができた。

ただ、そもそもの話をするなら、生活保護法は居宅保護の原則、つまりアパートでの保護が原則との旨を定めている。本人の意思に反して施設送りにすることなど本来もってのほかなのだ。仮の住まいとして一時利用住宅や都が提供しているビジネスホテルを用意するのは、区側がやるべき仕事である。少なくともタツヤさんの仕事ではない。

行政側にも、低家賃で借りられるアパートの不足や職員のオーバーワークといった事情があることは知っている。しかし、それらは行政の無策の果ての結果であり、住まいを失った人々に対して施設入居か、路上生活かの二者択一を強いることの言い訳にはならない。

後遺症で右目を失明、日当は5000円に下がり…

タツヤさんは埼玉出身。家族とは長年音信不通だといい、生い立ちなどについて多くを語ろうとはしなかった。中学卒業後は、電柱や電線の保守点検を行うNTTの関連子会社の現場で働いた。ほどなくして作業員の指揮監督や重機を手配する「職長」を任されるようなったという。

当時の月収は40万円ほど。東日本大震災の発生後は、復旧工事のために東北地方の各都市を飛び回った。「あのころは出張続きで、3年間ほど東京のアパートにはほとんど帰ることができませんでした」と振り返る。

しかし、それなりに順調だった人生はくも膜下出血で倒れたことで暗転。タツヤさんとNTTの関連子会社との間には雇用関係はなく、タツヤさんは個人事業主、いわゆる一人親方だった。会社の上司はたびたび見舞いに訪れ、タバコやジュース代を置いていってはくれたが、今後については「体がよくなったらまた声をかけてね」と言うばかり。次第に連絡は途絶えがちになり、「個人事業主には何の保障もないことに初めて気がつきました」。

タツヤさんは手術の後遺症で右目を失明。その後も工事現場で働いたものの、1日当たりの報酬は5000円ほどに下がってしまった。アパートは家賃が払えなくなり退去。ここ数年は知人の家や現場の事務所で寝泊まりする暮らしを続けてきたという。

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