末期がん妻に夫が学んだ「後悔しない看取り方」 50代夫婦、2人暮らしの涙と笑いの奮闘記後編

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9月2日、僕ひとり説明室に呼ばれた。「短いと数週間、長くて1、2カ月」と主治医はふたたび余命を宣告した。

その夜、妻はつぶやいた。「1日1万歩も歩いてたのにもう立てない。ミツルの声がだんだん聞こえなくなってきた。顔が見えなくなってきた。生きてる意味ないやん。私どうしたらいいの?」

「あんたは俺の自慢の奥さんや」と耳元で僕が言うと、子どものような笑顔になって「そりゃそうや!」。「病気になってもかわいいよな」と付け足すと「そんなふうに思ってくれる人に会えて幸せや」と笑った。かわいくてギュッと抱きしめた。

そんなとき、2012年に亡くなった友人の安藤栄里子さんを思い出した。安藤さんは多発性骨髄腫で「あと2年」と余命を告げられてから、「元気だった過去や、あったかもしれない未来を嘆くのではなく『今・ここ』に集中して生きたい」と、多くの社会問題に取り組み、8年間を生き抜いた。

元気だった1年前の妻と、ベッドに横たわる今を比較したらつらすぎる。でも「今・ここ」に生きている妻の言葉やしぐさに集中すると、今の妻が限りなくいとおしい。絶望の底でも愛し合える僕たちは、もしかしたら幸せなのかもしれないとさえ思えた。

退院して看取りの準備。家に帰る

いよいよ病院でできる治療はなくなった。お別れが迫っていた。病院からはホスピスをすすめられたが、僕は在宅での看取りをえらんだ。ケアマネジャーの友人から「最期は家で暮らすべきだよ」と言われたからだ。

在宅緩和ケアの現場を医師が記録した『なんとめでたいご臨終』(小笠原文雄 小学館刊)を読むと、そこには末期がんでも家で最期まで自分らしく生きる人たちが描かれていた。妻が人間らしい最期をむかえるには在宅ではないか。

複数の医師に「がんセンターでさえ苦痛を取り除けないのに、狭い集合住宅で暮らせるんでしょうか」と相談すると「在宅緩和ケアホスピスこそ望ましい」「苦痛は取れます」と断言してくれた。

「家に帰るからな」と妻に告げると「料理なんかしたくない」と妻。「オレがつくる」と言うと「そんなん地獄や」といたずらっ子のように笑う。「ヘルパーさんの料理ならエエか?」と言うと、こくんとうなずいた。

在宅緩和ケア専門の医師に面接してもらい、酸素発生装置を申し込んだ。ケアマネジャーを通して、介護ベッドや訪問入浴を手配した。

9月18日、妻はストレッチャーにのせられマンションに帰ってきた。訪問看護師は「夜、うんちで汚してしまったら、旦那さん1人じゃ大変なので私たちを呼んでください」と言ってくれた。食事や着替えはヘルパーが担ってくれる。僕は付き添って、マッサージと1日1食料理をするだけだった。

ある日、妻に教えられた野菜ポタージュをつくった。圧力鍋で野菜をゆで、ミキサーにかけ、牛乳を入れて温めて食べさせると、「おいしい~! ミツルの料理、はじめておいしいと思った! (作り方を)仕込んどいてよかった」と声を上げた。それから「ヤバい! また長生きする!」と叫んで居合わせたみんなを笑わせた。(※レシピ3を参照)

つらい日々ではあったけど、そこにはたしかに笑いがあった。

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