石破茂がいまだから語る「負け戦」に挑んだ真意 派閥のトップまで降板する必要はあったのか

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

ですから、最初からわかっていた負け戦に出てやっぱり負けた責任と、私の信じた意義との間を行ったり来たりで、幾晩か寝ずに考えた揚げ句、今回は派閥会長を辞任するという結論に至ったわけです。

その決断に対する報道については、厳しい意見も少なくありませんでした。「石破はおしまい、派閥もおしまい」というトーンも見ました。これらはそれぞれの記者の方々が、自分の、あるいは立場上の視点で報道していることでしょうから、反論するつもりもありません。最初から「よくやった、立派だ」なんて反応があるなんて夢更、思っていませんしね。

派閥が「4連敗」したわけではない

ただ報道では、総裁選に4度も負けたということがクローズアップされていたように思います。その報道を見て、4連敗ゆえに派閥として諦めムードになるのも致し方ないと感じた方もいるかもしれません。しかし実際のところは、私が派閥を立ち上げてからの総裁選挙は今回で2度目でした。

私が自民党の総裁選挙に初めて出馬したのは、福田(康夫)首相の突然の辞任の後、2008年9月のことです。竹下派の流れをくむ津島派に所属していた私は、福田首相がお辞めになるのなら、流れからいって、次は麻生(太郎)先生ではないかなと思っていました。小渕(恵三)元首相の急逝によって旧竹下派の平成研究会は津島派となったものの、会長の津島雄二先生があのタイミングで首相になられるとは考えにくかったですし、私よりも当選期数の多い額賀福志郎先生が出るという雰囲気もなかった。

これはきっと自主投票になるのだろう、と私は内心、麻生先生支持でいこうと決めていたところ、派閥の若手、例えば竹下亘さんとか、小渕優子さんとか、伊藤達也さんとか、今は亡き小坂憲次さんとかが、「平成研から総裁選に誰も出さないなんてバカな話があるものか、負けてもいいから誰かが出るべきだ」という議論が沸き起こって、白熱していったのです。その議論は徐々に、小坂憲次さんを出すか、あるいは石破茂を出すかという方向になっていきました。

小坂さんは私よりも年齢的に11歳年上でしたし、慶応高校、慶応大学の先輩。ただ、当選期数のほうは確か私が5回で、小坂さんが4回。小坂さんと私はつねに行動を共にしてきた親友といってもいい間柄でした。

私としては、大学の先輩だし、ルックスもよく、演説もうまいし、家柄は名門中の名門の小坂家4代目……。本心で「小坂さんが出るのなら、全力で応援するよ」と言い続けました。そうあるべきだと思ったからです。

ところが、小坂さんは小坂さんで、「何を言う。国会議員は当選期数がすべて。石破さんは私の1期上、これは越えられない」と言い続け、1晩、2晩、3晩も結論が出ず。ついに周りの人たちが「いい加減にどっちかにしろ」って言い出しましてね。小坂さんはどうしても出ないと言うし、根負けするような形で「じゃあ20人集まったらいいよ」って、つい言っちゃったわけです。

次ページ地位としての総理総裁に恋々としたことはない
関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事